2024年12月1日日曜日

こころの時代 宮沢賢治 久遠の宇宙を生きる(2)

冬陽射す甘藷ねっとり?しっとり派?
冬の空遥か彼方で鳴く鳶(とんび)
冬の山変化し続け永遠に
冬の風水面の揺らぎ没入感
山眠る森羅万象一体となる

■こころの時代 宮沢賢治 久遠の宇宙に生きる(2)
「春」と「修羅」のはざまで

わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い証明です
風景やみんなといっしょに せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける因果交流電燈のひとつの青い照明です
これらは二十二箇月の過去とかんずる方角から紙と鉱質インクをつらね
ここまでたもちつゞけられた かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです
「春と修羅」

いかりのにがさまた青さ 四月の気層のひかりの底を 
唾し はぎしりゆききする おれはひとりの修羅なのだ

欧州戦争後の混濁したいろいろの思想は、颱風のように襲いかかってきたが、
法華経を読んでからの世界に対する大きな祈願と、前途への輝くばかりの
望みのために、それらは幾度も打ち消されてはまた悩み、その心象の
克明なスケッチと、イーハトーヴォ童話の前期の作品が、毎日克明に手帳に刻まれていた。
いつも兄は手帳を持っていて、野山でも汽車の中でも暗がりでも病床でも、
死ぬまで自分の考えを忘れないうちにスケッチした。
宮沢清六「兄のトランク」

詩集の内容は出版するまで私共にも 知らせなかったけれども、
いちばん最後に序文を書き上げたときは大変上機嫌で、
「この序文には相当の自信がある。これは後で識者に見られても
恥ずかしいものではない。」という風な気焔(えん)を上げて読んでくれたものである。
しかし当時の私には、”因果交流電燈”や“四次延長”などはむずかし過ぎたし、
”修羅”や”宇宙塵“というような言葉に親しみを持てる年齢でもなかったのである。
けれども兄の死後、私にとってこれからの作品が もはや一生涯の間どうしても私から
離れることの出来ないものになったというのも運命である。
宮沢清六「兄のトランク」

わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)風景やみんなといっしょに 
せはしくせはしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈のひとつの青い照明です(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
これらは二十二箇月の過去とかんずる方角から紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです
これらについて人や銀河や修羅や海胆(うに)は 宇宙塵をたべ または空気や
塩水を呼吸しながら それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟(ひっきょう)こゝろのひとつの風物です たゞたしかに
記録されたこれらのけしきは 記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに みんなのおのおののなかのすべてですから)
全てこれらの命題は 心象や時間それ自身の性質として第四次延長の中で主張されます
大正十三年一月廿日(はつか) 宮沢賢治

まことのことばはうしなはれ 雲はちぎれてそらをとぶ
ああかがやきの四月の底をはぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

私一人は 一天四海の帰する所 妙法蓮華経の御前にご供養くださるべく
然らば供養する人も 供養の物も 等しく光を放ちて それ自らの
最大幸福と 一切群生の福祉とを齎すべく候
既に母上は然くご決心下され 父上も昨日は孰(いず)れかと 
お考へなされ候程に 御座候へば 何卒何卒 お聞き届け下され度候
「父 政次郎への手紙」1918年3月11日

信仰が熱烈になって、度々父に 改宗を切望するあまり、
はげしく宗教論を繰り返すので、母も全く困った思案の末、
父に法華経を贈った高橋勘太郎氏を訪問して、
「あなたがお勧め下さった法華経を信仰する余り、賢治はいつも
父と法論をして困っていますが、どうしたらよいものでしょう。」
と問うたところ、
即座に「それは少しも差支えありません。お父さんの信ずる大無量寿経も、
賢治さんの信ずる法華経も、実はみな釈尊の教えで、よくよく
読みくだいてしらべますと全く同じことを教えているのです。」
と言われて、母も安心して帰ったということであった。
然(しか)し若い賢治はその話などで納得する筈もなく、家中を法華経に
帰依せしめて、正しい宗教に改めたいという理由から、
大正十年一月二十三日に突然旅費だけをもって東京に家出したのであった。
そして本郷帝大前で謄写版印刷の原紙を書いて生活し、上野鶯谷の
国柱(こくちゅう)会に奉仕して街頭布教をしたり図書館で勉強したりした。
父は心配してときどき小切手で送金したが「慎しみて抹したてまつる。賢治」
と書いて返してよこすので、父も心配しながらも苦笑いをしていた という。
宮沢清六「兄のトランク」

宮沢賢治の短歌
父よ父よ などて舎監(しゃかん)の前にして かのとき 銀の時計を捲きし

暖かく腹が充ちてゐては 私などはよい事を考へません
しかも今は 父のおかげで 暖く不足なくてゐますから
実にづるいことばかり考へてゐます。
「親友 保坂嘉内への葉書」1918年10月11日

心象のはひいろはがねから あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐食の湿地 いちめんのいちめんの諂曲(てんごく)模様
(正午の管樂よりもしげく 琥珀のかけらがそそぐとき)

砕ける雲の眼路をかぎり れいろうの天の海には 聖玻璃の風が行き交ひ
ZYPRESSEN 春のいちれつ くろぐろと光素を吸ひ その暗い脚並からは
天山の雪の稜さへひかるのに(かげろふの波と白い偏光)
まことのことばはうしなはれ 雲はちぎれてそらをとぶ
ああかがやきの四月の底をはぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの沙羅なのだ(玉髄の雲が流れてどこで啼くその春の鳥)
日輪青くかげろへば修羅は樹林に交響し 陥りくらむ天の椀から
黒い木の群落が延び その枝はかなしくしがり すべて二重の風景を
喪神の森の梢から ひらめいてとびたつからす
(気層いよいよすみわたりひのきもしんと天に立つころ)
草地の黄金のすぎてくるもの ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫 ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに(かなしみは青々ふかく)
ZYPRESSEN しづかにゆすれ 鳥はまた青ぞらを截(き)る
(まことのことばはここにはなく 修羅のなみだはつちにふる)
あたらしくそらに息つけば ほの白く肺はちぢまり
(このからだそらのみぢんにちらばれ)
いてふのこずゑまたひかり ZYPRESSEN いよいよ黒く
雲の火ばなは降りそそぐ 

祖父はすぐ家の裏に 防空壕を掘ったわけです
当然そのときに 何を持ち込むか 大事なものを選べたわけですよね
祖父が選んだのは一番大事なものは やっぱり 賢治さんの遺した原稿類と
手紙類とか手帳類とか そういったものだった
防空壕と土蔵 その中にネズミの穴があって そこから火が入っていたんですね
だから 中のものは みんな蒸し焼き状態になって すぐ水をかけて
だから焦げ跡とか 水の染みとか残っているんですけれども 祖父の行動が
なければ 今現在 こういうものは残っていないということです
清六の孫 宮澤和樹

不思議という外はないのだが、数十冊の法華経といっしょに、
「春の修羅」の校正に用いた原稿が、すっかり好い色の狐色に
焼き上げられた紙の上に、インクの色も濃いセピア色に変わって、
そんなにひどい火事場から出て来たのである。
「春と修羅」の詩が 美しいチョコレート色に浮き出されて、
その独特なペン字で踊り上がっているのである。
宮沢清六「兄のトランク」

私は懐かしいやら可笑しいやらで 「やあ。」と云って頭を下げ、
兄もうれしそうに「やあ。」と麦わら帽子を取った。
太陽が赤く大きく揺れながら 西の山に落ちるまで、兄はこれから
やらねばならない沢山の企画を聞かせてくれた 
宮沢清六「兄のトランク」

いろいろな暗い思想を 太陽の下でみんな汗といっしょに 
昇華さしたそのあとのあんな楽しさは わたくしもまた知ってゐます
苦痛を享楽できる人は ほんたうの詩人です。
もし風や光の中に自分を忘れ世界が自分の庭になり あるいは惚として
銀河系全体をひとりのじぶんだと感ずるときはたのしいことではありませんか。
「弟 清六への手紙」1925年9月21日

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