2024年12月17日火曜日

100分de名著 有吉佐和子(2)「恍惚の人」①

寒き朝髭蓄えて庭掃除
姿消す黒き車よ冬の雨
冬陽射し開店前をひと眠り
冬日向オープン前のパーキング
眩しけりまどろみ抱き冬の駅

■100分de名著 有吉佐和子スペシャル(2)「老い」を直視できない人々「恍惚の人」①
ソコロワ山下聖美 伊集院光 阿部みちこ

「恍惚の人」(昭和47年刊行)
認知症の老人とその家族の物語 200万部を越えるベストセラー
1970年に日本の65歳以上の人口が7%を超える
現在は30%ですから現代にも続く問題が記されている
戦後の経済繁栄の裏側に潜む真実を小説によって見せた
最新家電や流行食品の描写がリアル
高齢化社会・認知症という大きなテーマの中に身近なモチーフを散りばめる
ストーリーテラーとしての力量が融合した作品

立花昭子 夫と息子と暮らす働く女性 離れには夫の両親が住んでいる

むこうから背の高い老人が、まっ直ぐにこちらを向いて歩いてくるのが見えた。
どういうわけか血相が変わっている。
ネクタイをしめ革靴をはいているが、外套はきていない。傘も持っていない。
「寒くないんですか、お爺ちゃん、雪が降っているのに」
「いや、寒くありません」
「どこへいらっしゃるところだったのですか?」
「会社の帰りですかな」
「え?ええ、私はお勤めの帰りですけど、お爺ちゃんは?」
「ああ、雪ですねえ」
質問には答えずに、舅の茂造は夢を見るような眼つきで空をふり仰ぎ、
いつの間にか昭子と一緒に、来た方角へ戻り始めていた。

「婆さんが起きてくれないもんだから私は腹が空いてかなわんのです」

彼はじっと死んだ妻を見詰めていたのだったが、やがて首を曲げて
息子の方を顧みると、言った。
「婆さんは、いつまで寝てる気ですかなあ」
信利は驚いて父親の顔を真正面から見た。
茂造の言葉の調子に、信利を誰と思っているのか曖昧な、
まるで他人相手に喋っているようなものを感じたからである。
茂造の眼を見詰めた。それは黄色く濁っていて、瞬かなかった。
輝きもなかった。信利の顔を見返しながら、
焦点は遥か彼方にあるような遠い眼をしていた。
それは恍惚として夢を見ているようにも思われた。

混乱の日々の始まり
舅茂造は嫁昭子に完全におんぶにだっこ状態
息子敏(さとし)「犬だって猫だって飼い主はすぐ覚えるし忘れないんだから
自分に一番必要な相手だけは本能的に知っているんじゃないかな

茂造が庭に面した硝子戸に蜘蛛のようにはりついて震えているのが見えた。
「ああ、昭子さん、小便です。ションベンがでそうなんですよ。」
「それなら、お便所はここですよ」
昭子が反対側にある便所の戸を開けて電気をつけると、
茂造は前を広げながら入ったが、また悲鳴を上げた。
「昭子さん、出ませんよ。ここでは小便がでないです」
「昭子さん、苦しいですよ。漏れそうですよ。ああ、ああ、ああっ」
「お爺ちゃん、庭でしてしまいなさい」「ここで、ですか」
「ええ」昭子が肯(うなず)いたのと、びしゃっと音がして、
庭土の上に白煙が立ったのが同時だった。
ふらふらしている茂造を、背後から抱えるようにして支え、
音を聞きながら昭子は大変なことになったと思った。
これから毎晩こういうことが繰返されるのだろうか。
音が止まっても、茂造がそのままの姿勢でいるので「お爺ちゃん」
声をかけると、茂造は昭子の存在にようやく気がついたらしく、
「ああ昭子さん、月が綺麗ですよ」と言った。
見上げると冬の夜空に皎々(こうこう)と皎(しろ)い月が輝いていた。
冴えた月影はほとんど満月に近い。
昭子は茫然として、しばらく声もなく、
舅と共に庭に佇み、月を見上げていた。

緊張が弛緩(しかん) 悲劇と喜劇を行き来する人間を描いている
悲しみの中にも笑いあり
テリー・ギリアム(1940~)イギリスの映画監督
コメディグループ「モンティ・パイソン」のメンバー
昭子だけにのしかかる昭和の介護
家庭のことは妻が担うのが当たり前の時代
不満を抱えつつ昭子自身も介護は自分の役目と認識

隣の母屋で昭子がキンキンと大声で怒鳴っているのが聞こえる
電話をあちこちにかけているのだろう。
「ママはずっとああかい?」
「うん、ずっと、ああだ。布団出して、お医者呼んで、
お婆ちゃん着替えさせて、その間ずっと、僕に怒鳴ってしようがないのにさ」
「呼んで来いよ」
「呼ばなくても来るよ。来るなり起こるぜ、何もしないって言って」
家事は他人事な昭和の男たち
何もしない男性たちはかばう意見が多かった
男性たちの描き方も当時の感覚としては大変リアル
普通に生きる女性たちの心の叫びが
鮮度抜群の状態でパッケージングされている
数々の魅力的な「ぐち」として出現
愚痴にこそ人間としての本音がある=愚痴文学

信利の属する世代の男性が持っている女性観には
牢固(ろうこ)として抜き難い封建色がある。
彼らは決して、妻が働くことによって家庭経済が
潤っている事実を認めようとしない。
彼らは妻が勝手にやりたいことをやっているのだと嘯(うそぶ)き、
その分、妻としての勤めをなおざりにしているのに対しては
寛容と忍耐をもって臨(のぞ)んでいると思いこんでいる。
今は、これからいつまでこんな暮らしが続くのかという絶望感で一杯だった。
茂造が死んでくれたらどんなに楽だろう。
そんな考えに罪悪感も後ろめたさも、もうなかった。
「すまないな、いつも」と言った。
夫の言葉さえ思い出すと腹立ちになる。
本当にすまないと思ったら、信利は昭子と交替すべきではないか。
嫌(いや)なことはみんな妻に押し付ける。これが家庭における亭主の実態だ。

響き渡る女性たちの本音
女性の家庭内での労働搾取問題を指摘する
観点から読み解く論文も発表されている

敏が昭子たちに言い放った言葉
「いやだなあ。こんなにしてまで生きたいものかなあ」
「パパも、ママも、こんなに長生きしないでね」
老いに近い昭子と信利にとってはショックだったはず
世代間に広がる感覚の溝

世代の断絶、親子の断絶という言葉が世の中で蝶々されるようになって久しい。
最近は新聞も雑誌も競って書きたてる上に、学生運動も最も過激な部分だけが
写真入りで報道されるので、若者の持つ親たちはびくびくして暮らしている。
厳しくすると反撥して暴走する、しかし過保護は不良化を招くというのだから、
親はどうしていいのか分からない。
断絶、断絶、ダンゼツ。

今も同じ?世代間ギャップ
断絶 昭和44年刊行のドラッカー「断絶の時代」がきっかけで流行語に

昭子や信利も茂造を「明治の男」と言う
どの時代でも断絶はあるので普遍性を読み取ることができる
茂造はメディア

0 件のコメント:

コメントを投稿