堤防を土筆ぐんぐん太陽へ
存えて悩み転がす春の月
星朧遠く離れてこそ繋ぐ
春愁う解かり合えない母息子
心閉じ先逝く息子朧月
■こころの時代 宮沢賢治
久遠の宇宙に生きる⑥「デクノボーとして生きる」
方十里 稗貫(ひえぬき)のみかも 稲熟れて
み祭り三日 そらはれわたる
病のゆゑにも朽ちん いのちなり
みのりに棄てば うれしからまし
慾ハナク決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
賢治が心配したのは、
肥料の注文が無くなる冬の間の工場経営のことであった。
そこでその年の九月には、石灰岩とセメントで
大理石のような感じのタイルを花巻でつくらせて、
その見本をトランクにつめて上京した。
病後でもあり、あまり重いものを持って上京するのはあぶないと、
家中で心配して引きとめたが、工場としてもどうしても
上京しなければならないと言って出かけたのであった。そして
東京の駿河台の八幡館という宿で高熱を出して臥床してしまった。
そこでもう死ぬ覚悟をきめて、
両親と私共に宛てて遺言状を書いたのであったが、
奇しくもそれは二年後に死んだ月日と同じ九月二十一日であった。
宮沢清六「兄のトランク」
遺言状
父上様(政次郎) 母上様(イチ)
この一生の間 どこのどんな子供も受けないやうな
厚いご恩をいただきながら、いつも我儘でお心に背き、
たうたうこんなことになりました。
今生で万分の一でもついにお返しできませんでした。
ご恩はきっと次の生 又 その次の生でご報じいたしたいと
それのみを念願いたします。
どうか信仰といふのではなくてもお題目で私を呼びだしてください。
そのお題目で 絶えずお詫び申し上げお答えいたします。
清六様
たうたう一生何ひとつお役に立てず ご心配ご迷惑ばかり
掛けてしまひました。どうかこの我儘者をお赦しください。
カノ肺炎ノ虫ノ息ヲオモヘ 汝ニ恰モ相当スルハ タダ
カノ状態ノミ 他ハミナ過分ノ恩恵ト知レ
快楽もほしからず 名もほしからず いまはただ
下賤の廃躯を法華経に捧げ奉りて 一塵をも点じ
許されては父母の下僕となりて その億千の恩にも酬へ得ん
病苦必死のねがひ この外になし
凡ソ 榮譽ノアルトコロ 必ズ 苦禍ノ 因アリト 知レ
窮すれば通ず 窮すれば通ず さりながら
こころひとつぞ 頼みなりけり
筆ヲトルヤ マヅ道場観奉請を行ヒ
所縁仏意ニ契フヲ念ジ
然ル後ニ全力之ニ従フベシ
断ジテ教化ノ考タルベカラズ!タゞ純真ニ法楽スベシ。
タノム所オノレガ小才ニ非レ。タゞ諸仏菩薩ノ冥助ニヨレ。
當に知るべし 是の處は即ち是道場なり
諸仏 此に於いて 三苦提を得
諸仏 此に於いて 法輪を轉じ
諸仏 此に於いて 般涅槃したまふ
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ陰ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
参照:https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45630_23908.html
あるひは瓦石 さてはまた 刀杖もって追れども
見よ その四衆に具はれる 佛性なべて 排をなす
不軽菩薩
我深敬汝等、不敢軽慢。所以者何、汝等皆行菩薩道、当得作仏
而是比丘 不専読誦経典 但行礼拝
乃至遠見四衆 亦復故住 礼拝賛歌 亦作是言
四衆之中 心不浄者 悪口罵詈言 我等不用
如是虚妄授記 常被罵詈 不生瞋恚 常作是言
衆人或以 杖木瓦右 而打擲之 避走遠住
猶高唱言 我不敢軽於汝等 汝等皆嘗作仏
あまり苦しそうなので、私はその晩二階の兄のそばで
寝むことにしたのだが、「今夜の電灯は暗いなあ。」と言ったり、
「この原稿はみなおまえにやるから、若し小さな本屋からでも
出し度いところがあったら発表してもいい。」
と言ったり、悲しいことを話したのであった。
翌日の二十一日の昼ちかく、二階で「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」
という高い兄の声がするので、家中の人たちが驚いて二階に集まると、
喀血して顔は青ざめていたが合掌して御題目をとなえていた。
父は「遺言することはないか。」と言い、賢治は方言で
「国訳妙法蓮華経を一千部おつくり下さい。表紙は朱色、
お経のうしろには「私の生涯の仕事はこのお経をあなたのお手もとに届け、
そして其中にある仏意に触れて、あなたが無上道に入られますことを。」
ということを書いて知己の方々にあげて下さい。」と言った。
父はその通りに紙に書いてそれを読んで聞かせてから、「お前も大した
偉いものだ。後は何も言うことはないか。」と聞き、兄は「後は
また起きてから書きます。」といってから、私どもの方を向いて
「おれもとうとうお父さんにほめえられた。」と
うれしそうに笑ったのだった。
以上は全生涯中最大の希望であり又私共に依託せられた最重要の任務でも
ありますので今刊行に當りて謹んで兄の意思によりて尊下に呈上いたします
宮澤清六
私がいまも目に見えるようなのは、八月になると
「困ったなあ。日が出ないかなあ。暑くならないかなあ。」
といっていた兄の顔である。
開花期に寒かったり雨ばかり続けば、必ず不作となるので、
「サムサノ夏ハオロオロアルキ」という言葉そのままのように
兄は見えたのであった。
私は永い間兄の側にいて、ある人には立派な資格だと言われ、
或る人々にはどうしても理解されないで、この世では、
まことに不幸でもあったこの持って生まれた性格を弟として
何とも出来ず全く気の毒でしかたなかったのである。
しかし賢治の性格も生涯も、他からの批判や同情などと全然無縁の、
そうしか出来得ない必然的な事実であり、結果でもあったと思う。
私の気がかりになるのは、
兄が遺言した後で父の問いに答えた言葉である。
「それはいずれ後でまた起きて詳しく書きます。」といった
そのことばについてである。私にはあのときの兄の目の色などから
考えあわせると、あの言葉にはもっと深い意味が
籠められていたように思われ、賢治の将来への悲願とか誓願が
籠められていると考えていいと思うのである。
「また起きて」という言葉の奥には「また生まれ変わって」
という意味があるように私には思われ、もう案外賢治は
あこがれの土地に生まれ変わって、「また起きて詳しく書きます。」
ということばを実行に移しているのではないかと、
子供の考えるようなことを思うのである。
宮沢清六「兄のトランク」
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