意味深の知らぬ素振りや風光る
春日向若き男に導かれ
春陽や若き男の笑い顔
風光る若き男の腕の中
無抵抗ぎゅっと抱かれ春の風
■100分de名著 ヘーゲル❝精神現象学❞③
理性は薔薇で踊り出すー「啓蒙」と「信仰」
斎藤幸平 伊集院光 阿部みちこ 八嶋智人
ヘーゲル(1770~1831)G.W.F.Hegel
青年ヘーゲルは当初フランス革命に傾倒
その出来事は彼は思想形成に大きな影響を与えた
社会が変われば意識が変わりー
意識が変われば社会が変わる
自らの判断を普遍的なものにしたいという欲求が芽生えてくる
啓蒙の意識
貴方が信じているものは すべて迷信で客観的根拠はない
啓蒙と信仰の戦い
自然科学の急速な発展による実証主義的な世界把握と
経済の発展により市民階級が力をつけた その結果
宗教や王権・貴族が批判される その上で人々が自分たちで
合理的に判断しながら社会や文化も合理化していこう
信仰とは純粋な洞察にとって一般に、 啓蒙
迷信と先入見と誤謬とによって
織りあげられたものである。(中略)あやまった洞察は、
背後にじぶんだけで留まている洞察であって、
そこには悪しき意図がある。 僧侶・専制君主
この背後の洞察と悪しき意図とによって、
大衆の意識は欺かれているのである。
悪しき意図が「悪」であることを啓蒙は科学の立場から批判
自分たちの主張が普遍的に正しいことを
示そうとするのが啓蒙の意識の特徴
意識 自己意識 理性 精神 宗教 絶対知
恣意的な結合
科学主義を論じた「理性章」
「啓蒙」の背景にあるのは急速な自然科学の発展
外面を分析さえすれば相手の内面が全部わかる
と言ってしまうと明らかな飛躍がある
私が例えば今感じている「美しさ」自体は
伊集院さんは感じることもできない
自然科学・脳内物質・神経反応に還元できない次元が存在する
思いなし 一方で信仰の側も「この聖書の奇跡はどこのことか❓」
など啓蒙側が「証拠を出せ」と圧力をかけるために
彼らの土俵に乗せられていく 啓蒙側が勝利を修めたのでした
「パンに過ぎないんじゃないか」という方が
漠然と幼稚なことを言っている
私たちは宗教を信じて「人間とは何か」「人生の意味とは何か」
を考えてそれによって自己理解を深めてきた
自然科学が客観的だという考えに固執すると文学・宗教・哲学
等は理解できない 「説明できないならば迷信だ」とすれば
世の中の意味はほとんど失われていく 幼稚な世界になっていく
啓蒙の「すべては物質的・実証的・データで説明
されなければならない」という考え自体が1つの❝信仰❞になっている
啓蒙は信仰 信仰は啓蒙
他者を信じるという点では信仰の方が優れていた
信頼するとはしかし信じることである ヘーゲル
信頼できる人が信じるものは信じようと思う
信頼なき相手との対話はすれ違いに終わる
お互いに信頼するものがあるからそこを考えないと会話ができない
エビデンスは信頼を築けるのではなく
信頼があってエビデンスが価値を持つ
自分たちの知こそが絶対であり
理性的に証明できないものは偽物である
このような考え方に固執する啓蒙は
他者との違いを許容できず暴走し始める
そして勃発したのがフランス革命でした
その死はしたがってひどく冷酷で、まるで平板な死なのであって、
そこにわずかに存在する意義といえば、キャベツの玉を切りさく
[ようにギロチンであたまを飛ばす]とか、あるいは
水をひと飲みするとか以上のものではないのである。
啓蒙の帰結とは?
啓蒙⇨有用性⇨絶対的自由⇨テロル
近代というのが自分たちの好きなものを信じるしかない
善悪の基準は自分にとって役に立つかどうか
「力こそが正義」という社会 無秩序状態
道徳や約束の言葉などあらゆる規範が
意味を失った状態が「絶対的自由」
啓蒙に足りない「薔薇」?!
「法の哲学」(1821年刊行)
🔶ここにローズ(薔薇)がある、ここで踊れ
🔶理性を現在の十字架における薔薇として認識し、
それによって現在をよろこぶこと。
この理性的な洞察こそ、哲学が人々に得させる
現実との和解である。
薔薇は豊かさや幸せの象徴だがそれをヘーゲルは理性と重ねている
現実の私たちの人生は幸せや苦しみなどにあふれていて
必ずしもデータや数値化によって説明できるものではない
そういう次元を大切に理性の姿を「薔薇としての理性」と呼んでいる
私たちの人生の意味は必ずしも数値やデータに還元されない
そういう次元が存在するからこそ芸術や宗教を使って表現したり
他者と分かち合ったり説明しようとしてきた
しかし そういうものを取っ払ってエビデンスや自然科学的な
知を特権視して「世界を説明できるんだ」
という在り方が今広がっている
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