2025年3月10日月曜日

あの人に会いたい 谷川俊太郎

春の夢老いて益々引き籠る
春日和実験増やし楽しまん
袖口に見たラクダシャツ春袷
老い生きて指も曲がりて寒き春
ちん点前ここに極めり風光る

■あの人に会いたい 谷川俊太郎(詩人)
・二十億光年の孤獨   谷川俊太郎
人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする

火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或いは ネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ

万有引力とは
ひき合う孤独の力である

宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う

宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である

二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした

・鉄腕アトム 歌詞 谷川俊太郎

詩も好き嫌いしかないんです
だから僕は常々詩は異性と同じだって言っているんですね
ほれるか ほれないかしかない

谷川さんのお父様は大学の総長まで勤められていた
哲学者の谷川轍三氏 お母さまは多喜子さま

父は趣味がいいとか趣味が悪いとかって いうことを
非常によく言う人だった これは善悪よりも 
何か強い価値基準でね 趣味が悪いって言ったら
もう絶対的な否定みたいなね そういう点で
何か言葉に対する感覚みたいなものは
父から受け継いでいるものはあると思う

全然 詩なんかもう好きじゃなかった 僕 ラジオの組み立てとか
模型飛行機を飛ばすとか そういうのが好きだった子だから
その友達のお陰で何か書きだしたら 結構書けたんで
何となく日記みたいに毎日毎日書いていたのが 
そのノートなんですけどね

(父が)腹に据えかねて「お前大学にも行かずに これから先
どうするつもりなんだ」って言った時に 他に何も見せるものが
ないから しょうがないから「こういうもん書いている」って見せた
「おおこれは悪くないじゃないか」って親ばかで 三好達治先生の
所に持っていった(三好達治 1900-1964 詩人)

要するにちょうど自我に目覚める時期にね 自分がいったい
どういう場所にいるんだろうって 自分の座標を決めたいっていう
気持がすごく強かった 宇宙の中に自分がいるっていう意識が
そのころすごく強くて 自分が生活に苦労しなかったから
社会の中での自分よりも先に 宇宙の中の自分というものを
意識した 

・ことばあそびうた
谷川俊太郎・詩
かっぱかっぱらった
かっぱらっぱかっぱらった
とってちってた
かっぱなっぱかった
かっぱなっぱいっぱかった
かってきってくった

現代詩っていうのは“難解である”っていうんで評判が悪いんですよ
読者がつかないわけ 日本語のもっている音の豊かな要素を
現代詩が全然顧みてない意味偏重になっている そこで日本語の
音のおもしろさ豊かさを感じられるような詩を作ろうと
作り始めたら結局そうなっちゃったんですね

世間知ラズ   谷川俊太郎 第1回 萩原朔太郎賞 受賞
夕焼け
だが自分の詩を読み返しながら思うことがある
こんなふうに書いちゃいけないと
一日は夕焼けで成り立っているんじゃないから
その前に立ちつくすだけでは生きていけないのだから
それがどんなに美しかろうとも

世間知ラズ
女を捨てたとき私は詩人だったのか
好きな焼き芋を食っている私は詩人なのか
(中略)
私はただかっこいい言葉の蝶々を追っかけただけの
世間知らずの子ども

世間知ラズ
行分けだけを頼りに書きつづけて四十年
おまえはいったい誰なんだと問われたら詩人と答えるのがいちばん安心
というのも妙なものだ
女を捨てたとき私は詩人だったか
好きな焼き芋を食ってる私は詩人なのか
頭が薄くなった私も詩人だろうか
そんな中年男は詩人でなくてもゴマンといる

夕焼け
夕焼けを書いた詩があるとする。
それは夕焼け自体と同様にとても美しいが、
1日は夕焼けだけで成り立っているのではなく、
その前に立ちつくすだけでは生きていけない。
詩を含めて、そこにあるものがどれだけ美しくても、
ふだんの生活には敵わない。
詩は人にひそむ抒情を煽るが、詩の真理は「瞬間」に属している。

心の重力
目の前にいる人のどこも見ていない鳥のような目の奥に潜む自我に、
詩人の自我はこみあげるだけ、言葉では対応できず、
音楽も詩も、逃げ出さざるを得ない。

理想的な詩の初歩的な説明
あるいは、飯を食ったり、人と馬鹿話をしているときだけでなく、
詩のことを考えているときでさえ、詩人は詩から遠ざかっている。

それでは、詩とは何なのだろうか。
振り返ればひたすら立ちすくむだけの日々。
生と死、言葉と生活、自己と他者、地上と宇宙。
そのへだたりとジレンマの中でふいに生まれる詩は、
永遠の謎めく問いである。
参照:https://www.jlpp.go.jp/jp/works/05_07.html

自分を空っぽにできたときです 自分が管みたいになって
自分の言葉じゃない言葉が何か出てきちゃったみたいなのが
理想的な浮かび方ですね なかなか妄想が浮かんじゃうんですけどね
でもそのうちなんか ポコッて思いがけない言葉が
浮かぶことがあります それが詩の始まり 

詩のボクシング ねじめ正一VS谷川俊太郎
「詩のボクシング 鳴り渡れ言葉 一億三千万の胸の奥に」
https://www.nhk.jp/p/nhk-archives/ts/RY1XL52811/episode/te/J5K317RQR5/

声になった言葉は消せない 

詩というのはやはり味わって貰わないと困る
おいしいかどうかっていうのが問題だと
質感とか味わいっていうものが 
やっぱり詩の一番大事な所であって
メッセージよりもその味の方が大事なんじゃないか

言葉は無力だ みんながいろいろ言葉で平和を追求したりして
いるけれども戦争は全然なくならないでしょう だから 言葉は
本当に言葉にすぎなくて 実際の現実とはなかなか関われない
そういう何か政治の言葉とか 特に契約とか法律の言葉とは
全然対極にあるでしょう 詩の言葉は だから彼らの言葉が
役に立たないところで 詩の言葉が何かの形で役に立たないか
みたいなことは考えてますね だから何か僕は理想を言えば
その辺の道端に咲いている花みたいな詩が書けたら一番いいと思うの

虚空へ   谷川俊太郎
老いて一日は
老いて
一日は


朝から
昼へ
己れに
躓き

昼から
夕へ
散らばる


幻の
明日の
星影

本当の本音が言えればね それをやっぱり恐れずに出したい
詩の言葉っていうのは 僕はやっぱり 究極的には何か
人間の一番 裸の所を出すものであるべきだと
思っているんですがねぇ

私感
ほぼ日さんで谷川俊太郎さんのことを知り
い~っぱいいろんなことを教えていただきました。
本当に本当にありがとうございました。

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