2024年10月3日木曜日

こころの時代 心とは何か 脳科学が解き明かすブッダの世界観

花丸のたまごを載せた秋の朝
小さきまま色の変わった苦瓜が
柿紅葉ジョルジュ・ルオーのマドレーヌ
月の暈神々しさと静けさと
日毎増す忘却力と星月夜

■こころの時代 心とは何か 脳科学が解き明かすブッダの世界観
脳外科医 浅野孝雄氏 僧侶・仏教学者 佐久間秀範氏

・諸行無常
すべてのつくられたものは無常である
万物は常に変転してやむことがない
・諸法無我
すべてのものは実体として存在しているものはない
すべての形成されたものは変形する

諸行無常について
生成 変化 消滅 こういうサイクルがどこまでも続いていく
日本でも仏教を捉えるときに「プロセスの存在論」という捉え方をしている
「方丈記」
ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず
よどみに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて
久しくとどまりたるためしない
ブッダはなぜ「諸行無常」を押し出したか
世の中には落ち着くことはない 物事はすべて変化する
一定・同一性を保つものがないこと自体が人間にとって「苦」の原因になる
ブッダが「苦」と言ったのはそのこと
「プロセスの存在論」はハッピーにするものではなく苦しめる
「実体の存在論」にどうしても心がひかれるところを考えると
我々は言葉を自由に使うようになって便利だったので
言葉で表現しようとすることを覚えた ものを表現するときに
プロセス流れのままに捉えることが難しい 認識するには
流れているものを止めて概念化して言葉にしてたのではないか
一度「実体の存在論」に持っていかないと認識・物を判断が難しい
それでそちらに流れていった可能性もある
一定のもの変わらないものを人間は必要としている
現実生活の必要 自分の心の安定のために実体 
恒久不変な何かを人間は必要としている 求めてしまう
求めているものが存在すればいいのだが 現実にかつて存在したことはない
今も存在していない 姿を現してくれたこともない
「プロセスの存在論」を現実として受けとめて そこから人間とは何か
人間はどのような生きる希望 意味 価値を見出すことができるのか
考えましょうというのがお釈迦さまの基本的なスタンスだった

カオスとは周期で表現されているのは秩序 
非周期で表現されているのは無秩序
混然一体となているが非常にきれいな構造を持っている
そういうものをカオスと呼んでいる

十二支縁起 無明
そのときブッダなる世尊は菩提樹のもとにおられた。
縁起の理法を順の順序に従ってよく考えられた。
すなわち、無明によって生活作用があり、生活作用によって
識別作用があり、識別作用によって名称と形態とがあり、
名称と形態とによって六つの感受機能があり、六つの感受形態によって
対象との接触があり、対象との接触によって感受作用があり、
感受作用によって妄執(もうしゅう)があり、妄執によって執着があり、
執着にとって生存があり、生存によって出生があり、出生によって
老いと死、憂い、悲しみ、苦しみ、愁い、悩みが生じる
このようにしてこの苦しみのわだかまりがすべて生起する。
「律蔵」より 中村元訳

無明 行 識 名色 六処 触 受 愛 取 有 生 死
線ではなく円として捉えた
無明   行      識             
混沌   本能的な欲求 気づき
カオス  (志向性)   (大域的アトラクターの成立)

名色 六処 触 受 愛 取 有 生 死

「無明」はどう解釈するか
脳科学的な見地から見る限りにおいては混沌 カオス 天地の始まり
混沌の中から「行」志向性が働いて形を持った心的なプロセス「識」ができる
「気づき」という形になって気づきの対象がナーマ・ルーパ「名色」に分かれる
それから「六処」感覚器官が働いて「触」この「触」があって 
これはフリーマンの知覚理論とも一致している
「触」によって知覚が発生したあとに「受」という知覚の発生に対する
情動的な反応 快苦で人間は良い悪いを判断 
「愛」は憎と対になっている ともかく自分のものにしたい
あるいは逆に離れたい 愛憎という情動の一番強い形が出てくる
人間の情動反応が習慣となってそのレベルで生活している
動物の状態 その状態が「取」執着の状態 「取」までの状態は
すべての有情に共通する心のプロセス ブッダは仰ったと私は考える
そこからが問題 「有」というのは動物的に存在する我々が
「有」というあり方を観察すると いろんな抽象的な考え
たとえば愛 国 欲望 煩悩 これみんな抽象的な考え方
抽象概念というものが生じてくる ブッダは人間が
動物と違う人間であるのは「有」において瞑想を経て
抽象的な概念 表象を生み出すように至ったそのことを彼は強調
ブッダが瞑想修業の最初に悟ったことだろう
死は大域的 アトラクターの崩壊 それにより無明に戻り
新たなるサイクルに入っていく

「大域的アトラクター」というのは常にその下で混沌が渦巻いている
条件が変われば当然変わって全部1回崩壊
その現象を瞑想においてブッダは捉えていた それが刹那滅(せつなめつ)
その頃はまだ刹那滅 クシャナ クサニカ その言葉はまだなかった
ブッダは「生死(しょうじ)」という言葉で表した
「生」生まれるという意味 ものごとが生じること 2つの意味がある
「死」も同じ 人間が死ぬことだけではなく 
ものごとが消失すること 滅すること 生じたものは滅する
それが「プロセスの存在論」ブッダは「生死」ということで
人間が「有」から「生死」を経て 六道輪廻(ろくどうりんね)
天海の世界に行くのではなく 生が継続 循環的に継続する
「苦」というのは生きているうちに生じて滅するものであると
ブッダは考えられた 「生死」というのは思考の回転
ブッダは循環的回転を「生死」「無明」いったん
頭の中で空白になるというプロセスで表現された
「無明」の中からまた新たな五蘊(ごうん)が生起してくる
これが循環 
人間の心の働きとは十二支の連関をもって回り続けている
十二支縁起として言われたんじゃないか
円環的に捉える 「生死」生住異滅 生じたものは滅する
さらに「無明」に結びついて人間が次第に意識のレベルが
進んでいくと仰っているように聞こえる
瑜(ゆ)伽行派の文献の中で興味深いものがあって
仏教では瞑想という修行法 
インドで古くからあるものを引き継いでいる
ヴィパッサナー(ヴィパッシュヤナー) サマタ(シャマタ)
サマタとヴィパッサナーを繰り返すことによって
レベルが次第に上がっていく
転依思想 我々の基本的な基盤になるのが
修行法を使うことによってレベルが上がっていく
抽象概念「愛」意識が散乱してどこへ行くかわからない場合に
心を一点に集中させていく 何もない状態でものを観察するのは
難しいので瞑想の対象を置いて意識を集中させて訓練
熟練してよくできるようになってきたら対象を外しても
向き合うことができる これがサマタのやり方
意識を広げていったり集中させていったり巧みにできるようになる
ここでカオスが入ることが極めて重要 カオスが入らないと
人間はそれまで学んだこと言葉も含めて習慣として行動で
身に着いたことを繰り返すだけ 「無明」があって頭の中に
あった先見 偏見 既成概念が一時消えて 無明の状態
混沌の状態 自分が意志を持っていればある方向に対して
意志を持っていればこれを発心という その方向に従って
新たな考えが生まれてくる 循環関係の中で唯識では種子 善の種子
十二縁起を通して刹那滅を経ながら積み重ねていくうちに
考え自体も洗練されてより良い考えになっていく
そこに修業の意味がある 

津田一郎教授 
神は方程式を決めたかもしれないが
その中で起こっていることは我々にとってすごく自由度がある
それが人間の自由意志 決定論に従っているけど
自由意志が必ずある 裏打ちしてくれるのが カオス現象
あるいは カオスのアトラクター
カオスというものが存在することを
人類が理解したことで我々は救われている
決定されているかもしれないが実は決定されていない世界で
我々は生きることができる

佐久間秀範教授
仏教がなぜ今日まで伝わっているか
思い悩み苦しんでいる自分 そういう方がいるとしたら
どうしたら心が安らかになり 安寧になるか
そこを目指すのが一番基本にある
ブッダが説いた 自分の悩み 苦しみはどうして起こるのか
一番基本的なものの見方 ものごとをあるがままに見る
自分の固定観念にとらわれるのではなく あるがままに
変化するものはそのまま捉えていく 難しいことだが努めていく
心安らかな状態はどうしたら生まれるのか
行き着けないと感じる時は祈りを捧げる
祈りは難しい行動ではあるがそういう姿が大事

浅野孝雄教授
ブッダはありのまま「如実知見」と言われた 何がありのままなのか❓
自分の頭で考えなさいということ 自らによれ 法によれ 自らを島として
自らに頼れ 法を島として 法を頼って 他のものを頼ってはいけない
独立自尊 誇りを持って ひとりひとりが 自分自身の生き方を
考えながら生きていきなさい ブッダは言われるんだなと
私は解釈している

佐久間秀範教授
良い悪い あるがままといっても 言葉を受け取った人が
自分の勝手な解釈で行えばブッダの意図とは違ってくる
ものごとをあるがままに見なさい そして
他の人の意見に惑わされるのではなく 自分をよりどころとして
あるがまま ダルマ 真理 「法」それによって歩んでいきなさい
と言われた 「涅槃行」ブッダが残された言葉が一番最後に出てくる

さあ 最後の教えを示しましょう 我が弟子たちよ
世の中のものは全て変わりゆく あなたたちは怠ることなく
正しく生きていくことに努め 励みなさい
これが私の最後の教えです

「プロセスの存在論」をよくわかるように自分の中に
薫(た)き込めて認識して 変わるのだから諦めてしまえではなく
正しく生きることに どの瞬間も務めなさいと残されていると思う

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