2024年6月30日日曜日

100分de名著 宮本常一「忘れられた日本人」(4)「世間師」の思想

やんわりとシアートップス夏闊歩
(セザンヌ)質感と遠近法の夏休み
(セザンヌ)茂る草自己肯定の強き圧
セザンヌを認めたピカソ青林檎
身体からジョワイユもれん夏の空

■100分de名著 宮本常一「忘れられた日本人」(4)「世間師」の思想
畑中章宏(民俗学者) 伊集院光 阿部みちこ

世間とは人々の行動を束縛する「しがらみ」として捉えられている
宮本自身は共同体自体が1つの世間
その外側にも別の世界がありそこを渡り歩くという開かれたイメージ
世間師とは
自分が生まれた故郷から移動して外の世間を渡り歩いてきた人

「梶田富五郎翁」
浅藻 梶田富五郎
「たいがいのことはきいてああげられるが、あそこは
シゲ地じゃからたたりがあるといけん」というから
「たたりがあってもええ、それに生き神さまの天子様が
日本をおさめる時代になったんじゃから、
天道法師もわしらにわるさはすまい」ということになって、
浅藻へ納屋をたてることをゆるしてもろうて久賀へ戻って来やした。

港をひらくちうのは、港の中にごろごろしちょる石を
のけることでごいす。人間ちうものは知恵のあるもんで、
思案の末に大けえ石をのけることを考えついたわいの。
潮がひいて海の浅うなったとき、石のそばへ船を二はいつける。
船と船との間へ丸太をわたして 元気のええものが、
藤蔓(ふじづる)でつくった 大けな縄を持ってもぐって石へかける。
そしてその縄を船にわたした丸太にくくる。
潮がみちてくると船が浮かんでくるから、
石もひとりで海の中へ宙に浮きやしょう。
そうすると船と沖へ漕ぎ出して石を深いところへおとす。(中略)
根気ようやっていると、どうやら船の
つくるところくらいはできあがりやしてのう。

やっぱり世の中で一番えらいのが人間のようでごいす。

パイオニアのライフストーリーを通して
「ある港や集落がなぜそこにできたか」
「産業が発展していったか」に着目した
技術を伝えて歩く 意味合いもあった
漁民は魚を追って移住
農民は新田開発や大災害によって共同体単位で他の土地に移住
自分たちが豊かになるためには
新しい土地を切り拓いて故郷から移動した
周防大島出身ということが複数の世間を行き来することに
抵抗がなく 肯定的に受け入れるという宮本常一の素地になっている

女の世間 生活誌
昔にゃァ世間を知らん娘は嫁にもらいてがのうての、(中略)
世間をしておらんとどうしても考えが狭まうなりますけにのう
昔は、若い娘たちはよくにげ出した。父親が何にも
知らない間に たいていは母親としめしあわせて、
すでに旅へ出ている朋輩(ほうばい)をたよって出ていくのである。
娘たちは盆、正月になると戻って来る者が多い。
その時しめしあわせておく。
そこで伊予方言をほんの少々おぼえて来て、「伊予に三十日おったら、
島(故里)のことばをとんとわすれた」と伊予方言のアクセントで言って
皆をわらわせた。しかしそれからさきができない。
近所の女のところへやっていって、「伊予に三十日おったら、
島のことばをとんとわすれた、おかい(おばさん)かい(粥)を炊いて
下れえ(下さい)」とあと半分は島の言葉で言ったという笑い話がある。

娘たちにとって旅はそうした見習いの場であったのだが、それは
島の者の持っていない知識をもっている事をほこりにしたのである。
女性は家や共同体に縛りつけられて 生まれ故郷から出ないで
一生を終えるイメージが強いが子育てや生業(なりわい)を
進める上で島の中の常識だけではなく 外の世界では
どうしているのかを知っておかなければならない
共同体の外側にある色々な世間の価値観を学ぶことは
家族や共同体にとっても意味のあることだった

言葉すら違う人たちがいることを「知る」「知らない」では全然違う

「世間師(二)」
左近熊太翁
地租改正 1873-81年に明治政府が行った土地と租税の改革
「やっと世間のことがわかるようになったときには、
もう七十になっていましてな。
わしも一生何をしたことやらわかりまへん」

世間師の人々から見えること
それにしてもこの人の一生を見ていると、(中略)
その努力の大半が大した効果もあげず埋没していくのである。
明治から大正、昭和の前半にいたる間、
どこの村にも世間師が少なからずいた。
それが、村をあたらしくしていくための 
ささやかな方向づけをしたことはみのがせない。
どこの村にもこのような世間師がいた
名士として記念碑に名を刻むのは成功を遂げた一部の人だけ
村の歴史は一方向的に進歩するのではなく
成功と失敗の繰り返しで漸進(ぜんしん)的なもの
停滞の歴史というものがあまり伝わっていない
停滞は「何も起こらなかった」記録にも残らない

新潟県佐渡

1980(昭和55)年 周防大島にて郷土大学発足

私は長いあいだ歩きつづけてきた。
そして多くの人にあい、多くのものを見てきた。
それがまだ続いているのであるが、その長い道程の中で
考えつづけた一つは、いったい進歩というのは
何であろうか、(注略)ということであった。
(中略)失われるものがすべて不要であり、
時代おくれのもので、あったのだろうか。(中略)これから
さきも人間は長い道を歩いてゆかなければならないが
何が進歩であるのか ということへの反省は たえず
なされなければ ならないのではないかと思っている。
「民俗学の旅」より

何が進歩なのかということを考えないとだめ 
民俗学の枠を超えた活動

離島振興法
離島の自立的発展と定住を促進させるため 1953年に施行された法律

自分の経験をもとにリアルに世の中を変えるにはどうすればいいのか
それぞれの地域が経済的・文化的にいかに豊かになるか 
が宮本の生涯のテーマとも言える
民俗学者の仕事の範疇(はんちゅう)を超えていると思われるが
宮本は政治を動かすような生臭いこともいとわなかった
徹底したリアリストだった

地域ごとに様々な事情があり個別の歴史があり
そこに住んでいる人のライフストーリーも様々
ということにも目を向けていかなくてはならない
画一的なマニュアルはないと宮本は実践的に言っているのではないか

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