広重の彩る空よはたた神
祠目指さん弁天山の山開き
待ちわびた鮎魚解禁海部川
激流の淀みで狙う鮎の群れ
里山を源氏蛍の飛び始め
■先人たちの底力 知恵泉 柳宗悦 反発を力に変えよ!
柳宗悦(1889~1961)思想家
若松英輔 林家たい平 和田彩花
河井寛次郎 濱田庄司らと百年前に「民藝」の活動を同じくしていた
沖縄は民藝の桃源郷
知恵その一 よそ者の声に耳を傾けろ!
歴史的に長く育てられた 貴重な特色を捨て去って
繫栄を望むが如きは 愚かな錯誤と言わねばならない
「琉球での仕事」より
縣民よ、再び云う。標準語を勉強せよ。
されど同時に諸氏自身の所有である母語を振興せしめよ。
諸君は日本國民として 不必要な遠慮に堕してはならぬ。
縣人よ、沖縄縣民たることを誇りとせられよ。
「国語問題に関し沖縄県学務部に答ふるの書」より
その土地から必然的に生れ出たもの それは「民藝」と同じ
地域固有の文化を守らなければいけない
来られた方々の眞情が 自らほとばしり出てきた
我々に對(たい)する好誼というのか、仰(おさ)へられた感情の解放と
云うのかを凡てを裸にして 沖縄人としての喜びを言葉に
踊りに唄に現はして 吾々を歓待された。
「柳宗悦手記」より
生きた言葉を持ているから 私たちは私たちでいられる
大衆じゃなくて私でいられる これは言葉のとても大きな力
よそ者の声は鳴り止まない声
言葉はその人の中でだんだん深まっていく
「個」の生活と人々とのつながりは矛盾しない
行くだけがつながりを深める行為じゃない
妻 兼子(近代日本を代表する声楽家)
長男 宗理(工業デザイナー)
次男 美術史家
四男 園芸家
一家揃って美を追求しました
柳宗理(長男)(1915~2011)
昭和10年(1935)東京美術学校西洋画科入学
バウハウスを知る ドイツ・ワイマールで始まった芸術とデザインの運動
私はあくまで 機械ということを根底として 父と一線を画していた
「柳宗悦の民藝運動と今後の展開」より
知恵その二 次世代の道筋を縛るな!
宗理が招いたイタリアからのお客様の言葉
こんな悪いデザインはない この食器がカチっというような
金属では食べ心地がよくない 日本の箸のほうがよほど優れている
「用の美に思う」より
この言葉で宗理の目が覚めました
私には「食べるための道具」を 根本に立ち返って考えなさい
と聞こえたのである
「用の美に思う」より
日本の美は世界に通用する
バウハウス創始者の言葉
バタフライ・スツール
昭和31年(1956)発表
「手仕事」と「デザイン」は良き暮らしを補完し合う仲間
昭和36年(1961)柳宗悦 永眠(享年72)
その後、宗悦の後を継ぎ日本民藝館の館長となり
96歳で亡くなるまで新たな民藝運道を展開していったのです
美しいものは空気をつくる
ぼくが見えている世界を見せてあげる
そうすると自分のなりたい落語家像だったり
自分なりの道が見えてくる
彼(息子)がなりたい落語家は僕が決めつける落語家ではない
林家たい平師匠
「与える」ことと「決める」ことを混同する
機会はどこまで与えてもかまわない
「これが良い」「これでなくてはならない」
ということを決めてはならない
ただ違う道を行きたい ひかれた道をなぞりたくない
自分の人生の中で「あった方がいいもの」
「なくてはならないもの」を感じわける
ひとつでも誰かの心に花を咲かせるようなことができればいい
苦しいとき 困ったとき つらいとき
美しさをひとつだけ手に入れたら耐えられる
林家たい平師匠
0 件のコメント:
コメントを投稿