2024年6月16日日曜日

100分de名著 宮本常一「忘れられた日本人」(2)伝統社会に秘められた知恵

ドライバーそこもかしこも昼寝かな
粉々になる前の時の記念日
夏の夜や好きに生きよと望まれて
月涼し人生は生ききらないと
自分の足ですっくと立たん青田

■100分de名著 宮本常一
「忘れられた日本人」(2)伝統社会に秘められた知恵
指南役 畑中章宏(民俗学者) 伊集院光 

伝統や慣習が色濃く残っている集落に長年続いてきた
「非合理的」と思われるものの中に 
現代を考える上でにヒントが隠されている

▪対馬にて 昭和二十年代 長崎県対馬
いってみると会場の中には 板間に二十人ほどすわっており、
外の樹の下に三人五人とかたまって
うずくまったまま話し合っている。
雑談をしているように見えたが そうではない。
事情をきいてみると、村でとりきめをおこなう場合には、
みんなの納得のいくまで 何日でもはなしあう。(中略)
とにかくこうして 二日も協議がつづけられている。
この人たちにとっては 夜もなく昼もない。(中略)
みんなが納得のいくまではなしあった。
だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。
話といっても理屈をいうのではない。
一つの事柄について 自分の知っているかぎりの
関係ある事例をあげていくのである。
話に花が咲くというのは こういう事なのであろう。

千尋藻(ちろも)を訪ねたときも
全員一致の合意を取り付けなければならないといわれます

外はよい月夜で、家のまえは入海(いりうみ)、
海の向うは低い山がくっきりと黒く、海は風がわたって、
月光が波に千々(ちぢ)にくだけていた。(中略)
渚まで出てみると、ちょうど総代たちが家へ帰るため
船にのるところであった。(中略)
船が出るとき 「ご迷惑をかけて どうもありがとうございました」
とお礼というと、
「いや、これで私の役目も無事にすみました」といって
月夜の海の彼方へ船をこいでいった。
対馬に伝わる「寄りあい」
地区の問題をみんなで話し合う合議制度
満場一致になるまで話し合って物議を決める民主主義の一例
自分たちの家が経験したことを披歴(ひれき)し合う
結果は残っていても その間に話し合ったことは
記録に残っていない
寄りあいをすることによって みんなで家々の過去の歴史を共有する
複数の議題を話し合う
寄りあいの場では複数の議題を持ち寄ることによって
「この経験は何時間か前に話していた あの議題に合うのではないか」
みんなの団結力を考えていくと 多数決の方が早くて
効率的だと思うけど そこに何かストレスが残ると
大体のことを共同作業でやる村にとっては積もり積もって致命的になる

▪村の寄りあい 福井県敦賀(するが)
観音講のことについて 根ほり葉ほりきいていくと
「つまり嫁の悪口を言う講よの」と一人がまぜかえすようにいった。
しかしすぐそれを訂正するように 別の一人が、
年よりは愚痴の多いもので、つい嫁の悪口がいいたくなる。
そこでこうした所ではなしあうのだが、そうすれば面と向かって
嫁に辛くあたらなくてもすむという。(中略)
つまりこの講は年よりだけの 泣きごとの講だというのである。
私はこれを たいへんおもしろいことだと思った。
自らおば捨山的な世界をつくっているのである。

お茶に漬物程度のごく粗末な食物で、ごく狭い範囲の女が集まって
ほんの一、二時間おしゃべりをして 別れるのである。(中略)
半分はふざけたような笑い話であるが、
その間に村の色々な情報交換がおこなわれる。
そしてそれで十分それぞれの家の性格を
のみこむこともできるのである。
そして、そういう集まりがもとになって
作業など決める集まりも行われる。
作業の中では田植の早乙女や養蚕の盛んなころには
共同飼育の当番決めなどたいてい女の集まりによって
おこなわれていたし、また家普請(いえぶしん)や葬儀などにも
女だけの協力作業はあるもので、
そういう事を中心にした集まりもおこなわれていた。
年齢階梯制(かいていせい)
講のひとつのきっかけとしては 自分たちが
好きな神様・仏様などを信仰する集まり
「自分たちは観音を推したい」ファンダム
代表者は往復の道のりで色々なものを
見聞きして帰ってこなければいけない
地元の講に戻って話す それが「土産話」
年齢で分かれているのがおもしろい
二十三夜講
旧暦23日の夜 
主に女性たちが月の出を待って飲食を共にする集まり
養蚕 技術の情報交換
「どの桑を食べさせればよい繭ができるか」という技術の交換
自分たちの上の世代の姑さんの悪口が一体化している
これが「講」の機能
西洋化された私たちには「非合理的」だが
彼らには彼らの理屈があった

「子供をさがす」
共同体の制度的なまた機能的な分析は 
この近頃いろいろなされているが、
それが実際にどのように生きているか。
ここに小さなスケッチをはさんでおこう。
これは周防大島の小さい農村が舞台である。
Aは山畑の小屋へ Bは池や川のほとりを、
Cは子どもの友だちの家を、Dは隣部落へという風に、
子どもの行きはしないかと おもわれるところへ、
それぞれさがしにいってくれている。(中略)
ということは村の人たちが、子どもの家の事情や
その暮ら方をすっかり知りつくしているということであろう。
(中略)目に見えぬ 村の意志のようなものが動いていて、
だれに命令されると言うことでなしに、ひとりひとりの行動に
おのずから統一ができているようである。

「あいつのことだから、どこかへ飲みにいったかもわからない」
というものと、「いや、山寺までいったのではないか」
というものとがいた。(中略)
一時間ほどして戻って来て、「こいつ、よくも俺をだましたな」
と子供を追いまわして、「もう一ぺんだましたら承知せんぞ」
と言ってかえっていった。
彼はのんべえで、子供たちをいつもどなりつけていたが、
子どもに人気があった。
かれは子どもがいなくなったときいて、子どもの
一ばん仲のよい友だちのいる山寺までさがしにったのである。
そこは一番さびしく 不便な山の中であった。
「子供をさがす」
共同体の成員に全く役に立たない
共同体を支えていない人は1人もいない
完全にこの社会一度壊れてしまうと再生は難しそうだ
ということもこのテキパキとした動きから感じる
今でも災害が起こった時には大きな機能を持っているのではないか

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