2024年6月11日火曜日

100分de名著 宮本常一「忘れられた日本人」(1)もう一つの民俗学

暑き日やくわえ煙草の老ライダー
汗拭ひマスク必須の過疎の店
染み付いたしまつな暮らし夏料理
世間への不安と不満夏の月
暑き夜や作り笑いを暮す人

■100分de名著 宮本常一「忘れられた日本人」(1)もう一つの民俗学
宮本常一(1907~1981)に人物像に迫る
昭和の高度成長期に活躍した民族学者
生涯旅した距離は約16万キロ(地球4周分)
教えて下さるのは民俗学者 畑中章宏氏

聞き書きをした人物のエピソードに
ふさわしい形(叙述形式)でまとめている
歴史書というのは「何年何月に電車が通った」
「テレビが入ってきた」「何が起こったか」は記録される
「人々がどのように心を動かされたか」は
歴史書には書かれていない
そういうものを拾い集めていこうという「模索の書」

「私の祖父」
市五郎はいつも朝四時にはおきた。それから山へ行って
一仕事してかえってきて朝飯をたべる。朝飯といっても
お粥である。それから田畑の仕事に出かける。
昼まではみっちり働いて、昼食がすむと、夏ならば
三時まで昼寝をし、コビルマをたべてまた田畑に出かける。
そしてくらくなるまで働く。(中略)
仕事を終えると神様、仏壇を拝んでねた。
とにかくよくつづくものだと思われるほど働いたのである。
しかしそういう生活に不平も持たず疑問も持たず、
一日一日を無事にすごされることを感謝していた。
山口県周防大島
ある日、日が暮れかけて、谷をへだてた向こうの畑を見ると、
キラキラ光るものがある。何だろうと祖父にきくと、
「マメダが提灯をとぼしているのだ」といった。
マメダというのは豆狸のことである。
マメダは愛嬌のあるもので、わるいいたずらはしないし、
人間が山でさびしがっていると出てきて友だちに
なってくれるものだとおしえてくれた。
実はこれは粟畑の鳥おどしに鏡のかけらをさげていたのへ、
夕日が反射して光っていたのである。(中略)
それから後、山の奥で木をきる斧の音がしても、
山の彼方で石をわるタガネの音がしても、みんなマメダの
しわざではないかと、思うようになったが、そう思うことで、
山の奥、山の彼方へ心ひかれるようになっていった。

伊集院光
デオドラントしてしまうことでにおいとかが急に消える 
いろいろなものが混ざったものを混ざったまま入れることのおもしろさ

民俗学の旅 十か条
一、汽車へ乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうこともよく見ることだ。駅へついたら人の乗りおりに注意せよ、そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また、駅の荷置場にどういう荷がおかれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないかよくわかる。

二、村でも町でも新しくたずねていったところはかならず高いところへ上ってみよ、そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ、そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへはかならずいって見ることだ。高いところでよく見ておいたら道にまようようなことはほとんどない。

三、金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。

四、時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。

五、金というものは儲けるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬように。

六、私はおまえを思うように勉強させてやることができない。だからおまえには何も注文しない。しかし身体は大切にせよ。三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。しかし三十すぎたら親のあることを思い出せ。

七、ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻ってこい、親はいつでも待っている。

八、これからさきは子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ。

九、自分でよいと思ったことはやってみよ、それで失敗したからといって、親は責めはしない。

十、人の見残したものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。

※宮本善十郎(宮本常一の父)が息子に語った十か条〔『民俗学の旅』所収〕
※宮本常一(1907〜1981・山口県周防大島生まれの民俗学者・社会教育者)
https://terakoya-juku.com/blog/detail/20221226/

どのように風景が変化していくか 田畑にどういうものが植えてあるのか
一つ一つの集落の違いや貧富の差というものも見えてくる
「できるだけ歩いてみること」が宮本常一の民俗学の重要なところ

渋沢敬三(1896~1963)渋沢栄一の孫で
後に大蔵大臣を務め日本経済を支えた人物
自費で自宅にアチック・ミューゼアムを建てる
宮本常一は教員を辞めアチック・ミューゼアムに入社。

渋沢敬三から言われたこと この時宮本常一32歳。
大事なことは決して主流になってはいけない
主流になるということは舞台に立って
役者が演技をするようなものなので
やっているとつい大事なことを見落としてしまう
だから「いつも片隅にいてモノを見る」ということが大事なこと

主な日本の民俗学者
南方熊楠(1867年~1941年)
柳田国男(1875年~1962年)
折口信夫(1887年~1953年)
宮本常一(1907年~1981年)

柳田の民俗学の動機は経世済民(世をおさめ民をすくうこと)
そのためには「心の有り様」を掘り下げる
その1つが民間信仰や民間伝承

宮本は「忘れられた日本人」を書く少し前から
柳田の民俗学に疑問を持っていた

渋沢に影響を受けた宮本
それを整理してならべることで民族誌というのは事足りるのだろうか。(中略)
人々の日々いとなまれている生活をもっとつぶさに見るべきではなかろうか。
民族誌ではなく生活誌の方がもっと大事に取り上げられるべきであり、
また生活を向上させる梃子(てこ)となった技術についてはもっときめこまかに
これを構造的にとらえてみることが大切ではないかと考えるようになった。

ただ豊かになるだけではだめ 普通の庶民が何をしてきたか
小さな日々の営みの中の経済行為や産業を見ていかなければならないと
渋沢敬三は考えた

宮本と柳田の違い
「オシラサマ」をどう記したか❓
柳田国男「遠野物語」
昔ある処に貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。
また一匹の馬を養う。娘この馬を愛して夜になれば
厩舎(うまや)に行きて寝(い)ね、ついに馬と夫婦になれり。
ある夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、
馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。
その夜娘は(中略)驚き悲しみて桑の木の下に行き、
死したる馬の首に縋(すが)りて泣きいたりしを、
父はこれを悪(にく)みて斧をもって後より馬の首を切り落せしに、
たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇りされり。
オシラサマというのはこの時よりなりたる神なり

宮本常一「庶民の発見」より
遠野地方では、このオシラサマに、毎年一枚ずつ布片(ぬのきれ)を
かぶせていく習慣があった。(中略)
この布施の地質を上からみていくと、モスリン、ナイスモス、
機織(はたおり)木綿、金巾(かねきん)、手紡(つむぎ)織木綿、
絹薄地、絹経細緯太(きぬたてほそよこぶと)、マダ布、
麻布、紙、真綿の順になっていて、(中略)
機織木綿から上にあるものはほとんど例外なしに
化学染料が用いられていて、植物染料を見かけない。(中略)
日本に化学染料の入ったと思われるのは明治初期である。
そしていちはやく化学染料のものが、オシラサマに用いられている。
元来、信仰は保守的なものと思われるが、半面、それが
長く続いていくためには時代に即応する新しさも持っているのである。
「遠野物語」のオシラサマの話はどのように(この民間信仰が)
生まれてきたかをファンタジックに描いている
宮本常一は「もの自体」に着目して
「どういう衣や線量が入ってきたか」によって
その地域の歴史を掘り起こそうとしている

対照的な着眼点

「自分たちが『豊かさ』や『ありがたい』と思うものを
きせてあげてあげよう」ということが化学染料のような
1番新しいものを着せる行為につながっている
庶民は伝統墨守と思われているが
学者が考える以上に新しいことを試みている

「文字を持つ伝承者(1)」
「おもしろいお爺さんですよ。逢うたら一ぺんに好きになれる人です。(中略)
島根県田所村に田中梅治を訪ねました。
公職を退いてからは全く晴耕雨読の生活に入りいつも
懐に手帳を入れていて田を耕しているときも、気がつくことが
あると田を打つ手をやめて畔に出て腰をおろし、これを書きとめた。
「鉛筆をなめましてな、あれはああだった、これはこうだったと、
考えながら土を見、空を見あげて書いておりますと、
空にぽっかり白い雲なんどが浮かんでおりまして、
今度は一句作りたくなる」
「自然ノ美ニ親シミツツ自分ノ土地ヲ耕シツツ、国民ノ大切ノ食料ヲ
作ッテヤル、コンナ面白ク愉快ナ仕事ガ外ニ何ガアルカ(中略)」
としるしているのは、やせ我慢でも何でもなく、
そういう村を作りあげて来たものの自信にみちたほこりからであった。

老ではあるけど老害ではない
宮本のこだわり
80歳以上の老人から話を聞くことが重要
明治維新という非常に大きな過渡期を経験してきた人
明治維新というものが近代とそれ以前との大きな変化だった
歴史書にはそういう体験が感情も含めて記録されていない
高度経済成長期は「新しい近代」という大きな変貌が起こっている
その先駆的な例として明治維新の
近代化を押さえておかなければならない
自分たちのこれからの進歩や発展をどう考えていくか

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