2024年6月8日土曜日

長田弘氏の詩

夏の霧追い立てられて過ぎゆく日
心細さと不安を持ちて迎え梅雨
永遠に帰依「南無阿弥陀仏」安吾
走馬灯忘れられなきことのある
自由となりて羽ばたく時か?青葉

■長田弘氏という詩人を知りました。

「死ではなく、その人が
じぶんのなかにのこしていった
たしかな記憶を、わたしは信じる。」
「詩ふたつ」より

「本を読もう。
もっと本を読もう。
もっともっと本を読もう。
書かれた文字だけが本ではない。
日の光り、星の瞬き、鳥の声、
川の音だって、本なのだ。…」
「世界は一冊の本」より

「イツカ、向コウデ」
人生は長いと、ずっと思っていた。
間違っていた。おどろくほど短かった。
きみは、そのことに気付いていたか?
なせばなると、ずっと思っていた。
間違っていた。なしとげたものなんかない。
きみは、そのことに気づいていたか?
わかってくれるはずと、思っていた。
間違っていた。誰も何もわかってくれない。
きみは、そのことに気づいていたか?
ほんとうは、新しい定義が必要だったのだ。
生きること、楽しむこと、そして歳をとることの。
きみは、そのことに気づいていたか?
まっすぐに生きるべきだと、思っていた。
間違っていた。ひとは曲がった木のように生きる。
きみは、そのことに気づいていたか?
サヨウナラ、友ヨ、イツカ、向コウデ会オウ。
「死者の贈り物」より

「魂は」
悲しみは、言葉をうつくしくしない。
悲しいときは、黙って、悲しむ。
言葉にならないものが、いつも胸にある。
嘆きが言葉に意味をもたらすことはない。
純粋さは言葉を信じがたいものにする。
激情はけっして言葉を正しくしない。
恨みつらみは言葉をだめにしてしまう。
ひとが誤るのは、いつでも言葉を
過信してだ。きれいな言葉は嘘をつく。
この世を醜くするのは、不実な言葉だ。
誰でも、なんでもいうことができる。だから、
何をいいえるか、ではない。
何をいいえないか、だ。
銘記する。
言葉はただそれだけだと思う。
言葉にできない感情は、じっと抱いてゆく、
魂を温めるように。
その姿勢のままに、言葉をたもつ。
じぶんのうちに、じぶんの体温のように。
一人の魂はどんな言葉でつくられているか?
「一日の終わりの詩集」より

「ねむりのもりのはなし」
いまはむかし あるところに
あべこべの くにがあったんだ
はれたひは どしゃぶりで
あめのひは からりとはれていた
そらには きのねっこ
つちのなかに ほし
とおくは とってもちかくって
ちかくが とってもとおかった
うつくしいものが みにくい
みにくいものが うつくしい
わらうときには おこるんだ
おこるときには わらうんだ
みるときは めをつぶる
めをあけても なにもみえない
あたまは じめんにくっつけて
あしで かんがえなくちゃいけない
きのない もりでは
はねをなくした てんしを
てんしをなくした はねが
さがしていた
はなが さけんでいた
ひとは だまっていた
ことばに いみがなかった
いみには ことばがなかった
つよいのは もろい
もろいのが つよい
ただしいは まちがっていて
まちがいが ただしかった
うそが ほんとのことで
ほんとのことが うそだった
あべこべの くにがあったんだ
いまはむかし あるところに
「長田弘詩集」より

「カシコイモノヨ、教えてください」
冒険とは、
一日一日と、日を静かに過ごすことだ。
誰かがそう言ったのだ。
プラハのカフカだったと思う。
人はそれぞれの場所にいて、
それぞれに、世に知られない
一人の冒険家のように生きなければならないと。
けれども、一日一日が冒険なら、
人の一生の、途方もない冒険には、
いったいどれだけ、じぶんを支えられる
ことばがあれば、足りるだろう?
夜、覆刻ギュツラフ訳聖書を開き、
ヨアンネスノ タヨリ ヨロコビを読む。
北ドイツ生まれの、宣教の人ギュツラフが、 
日本人の、三人の遭難漂流民の助けを借りて、
遠くシンガポールで、うつくしい木版で刷った
いちばん古い、日本語で書かれた聖書。
ハジマリニ カシコイモノゴザル
コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。
コノカシコイモノワゴクラク。
コノカシコイモノとは、ことばだ。
ゴクラクが、神だ。福音がわたしたちに
もたらすものは、タヨリ ヨロコビである。
今日、ひつようなのは、一日一日の、
静かな冒険のためのことば、祈ることばだ。
ヒトノナカニ イノチアル
コノイノチワ ニンゲンノヒカリ
コノヒカリワ クラサノナカニカガヤク。
だから、カシコイモノヨ、教えて下さい。
どうやって祈るかを、ゴクラクをもたないものに。
「世界はうつくしいと」より

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