イスラムの色と香りと春の空
神聖な色青に包まれ風光る
春の朝静けさの中佇まん
春の野や時過ぎるとも変わらずに
春の草空へ空へと急ぎけり
■ザ・プロファイラー マハトマ・ガンディー 不屈の精神の光と影
キング牧師、ネルソンマンデラ、チャップリン、
アインシュタイン、スティーブ・ジョブズ等
各界の第一人者から尊敬された人物 マハトマ・ガンディー!
インド独立の父として知られています。
2023年には中国を抜き人口世界一、IT大国としても知られ
GDPはアメリカ、中国、ドイツ、日本に次いで5位となったインド。
わずか80年前はイギリスの植民地だった。
イギリスの作った不当な法律で苦しめられた
抵抗すれば暴力が待っていた その現状に立ち上がったのがガンディー。
聖人とあがめられながらも親しみやすい人柄
お父さんの意味を込めてバープーと呼ばれた
そこで掲げたのは「非暴力・不服従」だった。
力は腕力からではなく不屈の意志から生まれる
ガンディーの運動はインド全土を巻き込んだ
中でも大きな転機となったのは「塩の行進」
海まで歩き塩を作る これは塩を独占していたイギリスへの抗議
ただ塩を作った所で何が変わるのかとイギリスには一笑に付された
行進する人は爆発的に増加 数百万人が参加する運動となった
しかし家族とはすれ違うようになった
禁欲生活を送っていたガンディーは家族にも同じ生活を強要した
家族を過酷な生活に追い込む結果となった
息子ハリラール
イギリスから独立を果たすもそれはガンディーの考えとはかけ離れていた
宗教対立による暴動、殺し合い、命がけで
それを食い止めようとするが凶弾に倒れてしまった
何故民衆から愛されたリーダーは悲劇的な最期を遂げたのか?
PROFILE テーマ① なぜイギリスに抵抗した?
1869年誕生ポールバンダル
イギリスの植民地 圧政や重税
不自由のない家庭で育つ ヒンドゥー教
1883年(13歳)結婚
18歳で長男ハリラール 誕生
妻と子を残しイギリス留学
髪を整えスーツ姿に ダンスやヴァイオリンを習う
英国紳士になりきることを目指していた
宗教 聖典を読んだことがなかった
欲望を抑えてコントロールすることの大切さを学ぶ
1893年(23歳)弁護士として南アフリカへ
人生を一変させる事件が起こった
KEYWORD 荷物もろとも私を客車から投げ出した
生涯で初めて受けた人種差別だった
もし私に社会から差別を取り除く力が
あるならばその力を使わねば人種差別を
撤廃するために可能な限り抗うべきだ
抗議運動を開始
インド人たちの政治団体を組織
反英闘争の指導者としてインド人たちの注目を集めていった
1906年(36歳)アジア人登録法
指紋を登録し登録証の所持を強制
従わなければ投獄や罰金
このような法律が世界のどこに
自由な人間に課されたことがあるだろうか
民衆にある行動を呼びかけた
KEYWORD 非暴力・不服従運動
宗教の本 どの宗教にも非暴力の教えが説かれていたことに気付く
あるもくろみから所持を義務づけられていた登録証を燃やす
暴力を用いずに抵抗 白人たちの良心に訴える
不当な法律に対してあくまでも服従しない
法律を設けた人や抑圧差別を行う人々の
考え方を改めさせることができる
不当な法律を撤回させることもできると考えていた
あらゆる苦難に耐えなければならないでしょう
私たちのうち多くが挫折してしまったら闘争は長引きます
しかし一握りでもこの運動を続けることができれば私たちの勝利です
ガンディーは逮捕
ACTION 逮捕者を増やす
監獄は受刑者であふれかえりコントロールできなくなってしまう
イギリスは差別の規定を廃止した
この時ガンディー44歳。
間永次郎
non-violence(非暴力)という言葉を作って広めたのはガンディー
ガンディーは複雑な性格を持った人で
いまだに彼が何者だったのか分かりません
直感で生きる宗教か?戦略的政治家?
PROFILE001 なぜイギリスに抵抗した
サティヤーグラハ
「真実にしがみつく」という意味を持ち
非暴力・不服従を含むガンディーの運動の理念を表わす言葉
性善説をもとに相手の良心に訴えかけた
インド独立運動を牽引していく
塩の行進がインドに広がりイギリスを脅かす運動となっていく
PROFILEテーマ2 なぜ塩の行進が成功した?
インドの独立
1914年(44歳)インドに帰国
反英闘争は始まっていた
参加者はインテリ層、富裕層
庶民、貧困層の人々を運動に取り込む必要があった
インド各地で不平不満を改善していった
次第にガンディーを支持するようになっていく
市民はガンディーをマハートマー(偉大な魂)という
称号を与えるとともに親しみを込めてバープー(お父さん)と呼んだ
1919年(49歳)ローラット法を制定
インド人の人権侵害に拍車がかかった
政府が態度を変えない限り私は非暴力・不服従に訴えるほかない
インドのリーダーたちがいた組織に入り込んだ
後のインド初代首相 ネルーなどがいた国民会議派
ITEM チャルカー(糸車)
インドの命運はこのチャルカーにかかっています
イギリスの綿製品がインドに流れ込むようになって
人々はチャルカーをしまい込みました
それがインドから繁栄を奪い去ったのです
どうぞほこりをかぶったチャルカーを取り出して
みんなでインドの糸を紡いでください
イギリス製品ボイコット
1922年イギリス側の警察官23人が犠牲に
このまま暴力を放置すればすべての人々が
暴力の泥沼に足を踏み入れてしまう
今こそ立ち止まって考え直さなければならない
運動の中止を宣言
ガンディーの失敗から内紛が起こる
独立運動は勢いを失う イギリスによる締め付けは厳しくなった
1928年憲法改正にインド人を参加させなかった
独立に暗雲が漂いはじまた
1930年3月12日ガンディーは海に向かって歩き始めた
ACTION 塩を作る
塩はイギリスの専売 インド人が自由に作ると処罰対象
空気や水のように塩がなければ人は生きていけません
しかしその塩に私たちは法外な税金を支払わされているのです
ともに抗議のために歩きましょう 海岸で塩を作るのです
この行動は「塩の行進」と呼ばれた 78人の賛同者が同行
記者
これは笑うしかない ほとんどの思慮深い
インド人の気持ちも同じであろう
ACTION メディアに情報を流す
ガンディー新たな抗議運動を始める インドから緊急取材映像
日に日に行進に参加す人が増加 1万人に迫る民衆
海外でも好意的に受け取られ世界的に賛同者が増えていった
ニューヨークタイムズ紙
貧しい者も富めるものも数千人の列となって
共に歩いている 歴史的な行進だ
出発から24日目夕刻 390キロを歩き切った
遂に海岸に到着 ガンディーは塩の結晶を手にし高らかに宣言
この潮で大英帝国を根底から揺さぶるのだ
掴んだ塩を離してはいけない インドの誇りはこの塩にある
これをきっかけにインド人は堂々と塩を作り始めた
堂々と法律を破ったのだ 民衆は歩みをやめなかった
インド全土に波及 数百万人が参加することとなる
1931年3月5日(61歳) インド人による塩の製造を認める
PROFILE002 なぜ塩の行進が成功した?
あえて歩くことで耳目を集め民衆の参加意欲を喚起した 間永次郎
イギリス紳士に憧れていた20歳頃
南アフリカ滞在時終盤の40歳頃
インド独立運動時代の50歳頃
(究極の美しさは裸体にあると考えた
ガンディーが最終的に到達したスタイル
仏陀と重なるものがある ファッショナブルである
眼鏡もお洒落 腰布一枚になった時も
結び方ひとつこだわりがあった 大のファッション好きで
生涯にわたって自分のファッションにこだわりを持っていた)
自分たちで作った手織りの布を使って着ている
自己主張や表現のための衣装
どうすれば人々に一番アピールできるか
考え尽して行われたPerformance
運動が失敗して悩んだ末シンプルで明確な企画に行き着いた
理想を持ち続けた 私生活でも理想を追い求めた
ガンディーは家で家族や弟子にも禁欲生活を徹底していた
禁欲その1 食欲の制限
元々ガンディーは菜食で暮らしていた
ますますエスカレートし香辛料も使用せず
味付けは少量の塩だけにしていた
口に入れるのは果物のみという生活も実践した
食物は薬を取るがごとく摂取されなければなりません
美味か否かを考えず肉体の必要に限られた分量だけを
とらなければなりません
禁欲その2 物欲の制限
高価な望遠鏡は私たちの求める理想の生活にふさわしくありません
もっと性能の良いものが欲しくなります
だからそんなものは持たなくてもよいと親友カレンバッハに説いた
こんな言い争いを起こすなら望遠鏡を捨ててしまおう
望遠鏡が無くなれば言い争うことも無くなる
ガンディーは望遠鏡を捨ててしまった
(西洋文明の)工場生産の普及によってインド人の多くが失業した
鉄道の普及によって富が集中する地域と
そうでない地域の格差が広がった
ガンディーは目先の欲望を優先することで
社会の見えない所に暴力(搾取)が生まれると考えた
機械文明からの脱却はイギリス支配からの解放を
目指す上での喫緊の課題であると考えていた
間栄次郎
禁欲その3 性欲の制限
自らも36歳から妻との肉体関係を断つ
多くの民衆から聖人視されただがこの極端な禁欲生活は
ガンディーの家族に不幸をもたらした
特に長男ハリラールは苦しんだ
後々は父のように弁護士になることを夢見ていた
しかしこの頃近代文明を否定していたガンディーは
自身は留学し学んでいたにも拘らず息子には西洋教育を禁止
イギリス留学も禁止した
お父さんは良い教育を受けたのになぜ私たちには
良い教育を施そうとしないのだろう
ハリラールは父の愛情を感じられないと嘆き
2人は対立を深めた
私はハリラールを自分の息子とみなさなくなった
ハリラールは家を出て事業を行うが失敗、借金を抱える
酒に溺れ音信不通 住む家も失い最後は失意のまま亡くなった
ガンディーの欲望からの脱却は民衆を引きつけたが
家族には暗い影を落とす結果となってしまった
1947年インド独立
インド独立の父と呼ばれるようになったガンディー
だがその最期は同胞から銃を向けられ凶弾に倒れた
PROFILEテーマ3 なぜ暗殺されたか
KEYWORD ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立
当時のインドはヒンドゥー教徒約7割
イスラム教徒は約2割
このまま独立してはイスラム教徒は少数派のまま
多くのイスラム教徒は新たな国を作りたいと思うようになっていた
KEYWORD ひとつのインド
ガンディーは互いを尊重するひとつのインドを願った
ジンナー代表と話し合うも解決の糸口は見つからなかった
PERSON 独立の指揮を執っていたのはネルソン
国民会議派のトップとなっていた
ネルソンは分離もやむを得ないと考えていた
イスラム教徒は我々が如何なる妥協を示しても
自分たちの国家を作ると言って譲らない
我々はあえて頭痛から逃れるために頭を切り離さなければならない
もはやガンディーのような中道的な立場は非現実的である
イスラム教徒とヒンドゥー教徒の抗争 5000人以上が亡くなった
ガンディーは地方の村をまわり融和を訴える
宗教は人と人を結びつけるものです
どうして人が宗教の名において戦う必要があるのでしょうか
ヒンドゥーとイスラムの問題は愛と信頼の問題なのです
パキスタンとインドに分離独立
インドとパキスタンが分離独立すれば
平和が戻ってくると皆は考えている野だろか?
KEYWORD
インドの分裂は間違っています
このような独立の行く末は闇に包まれるでしょう
各地で暴動
およそ100万人が亡くなったとされる
この時78歳のガンディー
混乱の激しいデリーに入る
ACTION 断食
民衆の良心に訴える
愛と憎しみを超越していなくてはならない
それを目指して私は絶え間なく努力している
それを目にした民衆は武器を捨て争いをやめた
ガンディーは断食を解いた
1948年1月30日祈りを捧げると言って外に出た時
男が突然飛び出し至近距離から数発撃った
子どもが鳴らした爆竹のような音がしガンディーは倒れた
1948年1月30日 ガンディー死去(78歳)
犯人はヒンドゥー教過激派
翌日国葬として営まれた葬儀は死を悼む100万人以上が集まった
彼の遺灰は彼の偉大な魂への敬意を込めて
ガンジス川に流され弔なわれた
寛容の思想は重要 渡部陽一
インドでのガンディーの評価は独立のアイコンとしての評価は高い
一方で彼の禁欲的な部分 機械文明批判などの視点というものは
現在のIT大国として発展しているインドと相いれないもの
ガンディーは尊敬されながらも目を背けたい耳を塞ぎたい
矛盾した存在になっています
暴力が亡くならない世界 それでもどう生きるか
理想と現実の間で生まれる矛盾と
どう向き合うかを歴史から学びたい 岡田唯一
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