蜂須賀桜花びら揺れて心揺れ
雪柳病む精神と向き合わん
吾の植えた不安に支配されし春
三月や縁と出逢いに育まれ
■ザ・プロファイラー
みずからの魂を解剖した画家 エドヴァルド・ムンク
レオナルド・ダ・ビンチが人体を研究し死体を解剖したように
私は自らの魂を解剖してみよう
ムンクのスケッチブック
母は私の手を握り引っ張った
なぜそんなにゆっくり階段を 降りるのと尋ねた
母は一歩一歩立ち止まり息をつぐ
ムンクのスケッチブック
母との強烈な思い出として残ったという
私を罰するとき父は激しい怒りでほとんど我を忘れていた
私たちの知るエドヴァルド・ムンク
私の好きなエドヴァルド あそこにいる顔が見える?あれが死よ
訴えるような眼差しで僕を見た 僕はカーテンで顔を隠した
涙を抑えきれない
ムンクのノート
15歳の姉ソフイエの死
ムンクは姉が息を引き取った時に座っていた椅子を生涯離さなかった
姉の与えた喪失感は大きかった
病と狂気と死は私のゆりかごの横に立つ黒天使だった
スケッチブック
母と姉の死 絵を描くことだけが救いだった
僕は画家になろうと思う
ムンクの日記
ムンクは感受性が強かったので死に対する意識は高まっていって
死の呪縛から逃れるために絵を描くということはあった
汝 自らの人生を記せ
絵を描くにしても小説を書くにしてもおとぎ話のようなものではなく
自分自身が体験・経験したことを率直に描きなさい
自分にとって恥ずかしいということも恐れずに描きなさい
芸術家ムンクを作る上でかなり重要な役割を演じた
近づけば近づくほど何が何だか分からなくなり
しまいには雑多な斑点だけになる
モルゲンブラーデ1886.10.28
初日「病める子」が飾ってある部屋に行ってみると
人々がこの作品の前にひしめき合っていた
叫び声や嘲笑が聞こえた
私に向かってイカサマ画家だと叫ぶものもいた
「病める子」は私のアートにおける新境地となり突破口となった
ムンクの小冊子(22歳)
絵画は注文を受けて描くものでした。
自分を表現するものではなかった。
画家本人の中にあるものを外に表現していかなくてはいけない。
というのは表現主義。
この思想が出てくるのは20世紀に入ってから出てきたものです。
これは新しい考え方でムンクはむしろ先駆けでした。
「汝 自分の姿を記せ」ボヘミアンは言う。
もっともつらいとき 頭を暖炉に向けて突然こんな欲求を覚える
死んでしまえ そうすれば何もかも終わる
ムンクのノート
室内画や本を読んでいる人物
また編み物をしている女などを描いてはならない
息づき感じ苦しみ生き生きとした人間を描くのだ
ムンクの小冊子
1890年26歳
パリの美術学校を辞める
短い人生の間ゴッホの炎は尽きることはなかった
生涯のうちの数年間絵筆は燃え上がり
そして残り火となり芸術のために彼は燃え尽きた
私も最後まで彼のように燃える絵筆で描きたいと思い望んでいる
ムンクのスケッチブック
ゴッホの魂が感じたままを描くことに共感したという
激しい批判
展示は凄い騒ぎを引き起こしています
なにしろろくでもない年よりの画家が掃いて捨てるほどいて
そうした輩は新傾向を目にすると逆上するものですから
叔母宛の手紙
ベルリンの個展はわずか1週間で打ち切られた
夕暮れ 道を歩いていた 一方には街が見渡せ
眼下にフィヨルド(入り江)が横たわっている
立ち止まってフィヨルドをを眺めていると
沈みゆく太陽 雲が赤く変わっていった
まるで血のように
どこからか聞こえる叫びが私の耳を貫いたように感じた
確かに叫びを聞いた気がした 私はこれを絵に描いた
スケッチブック
1892年「窓辺の接吻」
ムンク1893年「叫び」29歳
この絵に付けられた最初の名は「絶望」
欲しくてたまらなくなる そのために昼も夜も心安らぐ暇がない
ムチでたたかれた犬のように打ちひしがれふがいなくさ迷い歩く
どうすれば良いのだろう
ムンクのメモ
1890年 ミニー・タウロウと破局 5年で終わりを告げる
2人の愛が灰となって地面にたまるように感じた
スケッチブック
1893年29歳
ダグニー・ユール(ノルウェー首相の姪 医者の娘)と出会う
ダグニーはムンクの友人(ポーランド人)の作家の妻
彼女は多くの男性を誘惑 ムンクも夢中になった
彼女はファム・ファタールと呼ばれる女だった
ファム・ファタールというのは「宿命の女」「魔性の女」
性的魅力で男を誘惑してその男を破滅していく
19世紀の時代が好んだタイプ
ムンクもそういう女性に目がなく興味もあって近づいた
ダグニーとの関係を書いたのが「嫉妬」
1895年「嫉妬」31歳
1899年~1900年「生命のダンス」
過去現在未来 時間の経過を表現
女性からインスピレーションを得た絵画
芸術という意味でもムンクの代表作の一つ
生気を失った目
現在のモデルとなったのは
1898年34歳交際をしていた トゥラ・ラーセン
独身のブルジョワ女性
交際しているうちにトゥラ・ラーセンの方が夢中になった
しかし「嫉妬」を描き終えたとき関係がこじれていた
私はいつもアートを最優先にしてきた
女性は仕事の邪魔になる
ムンクのノート
そしてアルコール依存症に
トゥラから逃げ始めて2年 1902年38歳
銃の暴走
トゥラは私の黒天使となった
スケッチブック
地獄の自画像 39歳
私の絵に値がつくようになってはじめて
人々は私の絵に関心を持つようになった
45歳になるまでは私の絵を見ただけで
「おお気味が悪い」と叫んでいたくせに
スケッチブック
クラーゲリョーに居を構えた
1913年~15年「雪の中の労働者たち」
1910年~12年「疾走する馬」
国民画家となる しかし評価されるのは若い時に描いた絵ばかり
20世紀に入り 「印象Ⅲ」カンディンスキーらが出現
ムンクは取り残される 自分を超えられなくなっていった
「聖ウルスラ教会とミュンヘン・シュワビング」
版画など
リトグラフ・手彩色「嫉妬Ⅲ」1930年
1940年76歳
ナチス・ドイツがノルウェー侵攻
「自画像」1940年~43年 「犬の顔」1942年
家に閉じこもりひたすら絵を描き続けた
1944年 ムンクの家の傍で爆弾が炸裂
窓ガラスが吹き飛ばされ 外からの冷気が吹き込んだ
その事から気管支炎が悪化
1944年エドヴァルド・ムンク永眠(80歳)
終戦を待つことなく一人でこの世を去った
最晩年の自画像が残っている「自画像、時計とベッドの間」
1940年~43年
終戦後 ムンクの家から1,000点を超える作品が発見された
それ等はオスロ市に寄贈され
美術館で今も人々の心を揺り動かしている
私のしかばねは腐りそこから花が育つだろう
私はそうした花の中に生き続ける
死は人生の始まり新たな結晶化の始まりである
スケッチブック
不安と病気から解放されてしまえば
舵を失った船のようなもの
ムンク
自分の過去を超えられないムンクの後世
続けていくことの難しさ 山田五郎氏
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