2024年11月3日日曜日

清少納言 枕草子の真実

冬隣日に日に増えるSpamかな
秋の雨心にひだがまた一つ
秋の日や意志の断絶にべもなく
米の秋割れんばかりのブーイング
パソコンに向かって抹茶長き夜

■英雄たちの選択 
秘められたメッセージ ~清少納言 枕草子の真実~

春はあけぼの やうやうしろくなりゆく山ぎは
すこしあかりて紫だちたる雲のほそくたなびきたる

世界最古のエッセイと言われる枕草子 執筆したのは清少納言
厳しくとがめた人物がいた その名は紫式部

さるまじく あだなるさまにもなるに侍るべし
「紫式部日記」より
現実からかけ離れた嘘の作品である

一条天皇の后となった藤原定子 一族の没落
変わって権力を握ったのが藤原道長の台頭
後宮を追われた定子 裏切者の烙印を押され職を辞すことに

磯田道史 浅田春奈 

康保3年(966)頃 清少納言生まれる
父は清原元輔(歌人) 
天元4年(981)頃 橘則光と結婚
2人のあいだには男児が生まれた
この時代夫婦の経済は女性の実家が支えるものだった
父 元輔が亡くなると 則光は清少納言の元から去って行った
後宮への出仕を決心
正歴元年(990) 藤原定子 入内
正歴4年(993) 清少納言 後宮の女房となる
平安京 内裏 後宮 登花殿と呼ばれる所に勤める

少納言よ 香炉峰の雪いかならむ
「枕草子」より
香炉峰の雪は簾をかかげて看る
白居易
さりぬべからむ人のむすめなどは さしまじらはせ
世のありさまも 見せならはさまほいう 内侍のすけなどにて
しばしもあらせばやよこそおぼゆれ
宮仕へする人を あはあはいうわるき事に
言ひ思ひたる男などこそいとにくけれ
「枕草子」より

「これに何をか書かまし」と「うへの御前には史記といふ文をなむ
一部書かせたまふなり 古今をや書かまし」などのたまはせしを
「これ給ひて 枕にしはべらばや」と啓せしかば
「さらば得よ」とて給はせたりし
「枕草子 能因本」より
史記と敷物の語呂合わせ

赤間恵都子 繁田信一 中野信子

高階茂忠 定子に母方の祖父 
東宮学士として一条天皇に学問を教えた
清少納言が一番影響を与えた相手が一条天皇
定子が一条天皇を教育していった
平安時代は政治と文化は強く結びついていた
古今和歌集を命じた醍醐天皇 後撰集を命じたのは村上天皇
天皇の力が強いときは政治も上手く起動していた
後宮というのは后を取り巻く文化的な場所
文化的な場所が価値が上がればその后の価値も上がり
さらに天皇の治世にも影響する
日本の後宮の特徴は女性キャリア官僚がいる
日本では取り入れなかったもの⇩
宦官(かんがん)宮廷に仕える去勢された男性
科挙 中国の官吏登用制度 実力試験方式で選抜した
オール漢文ではなく和歌でやっていくなんちゃって中国でした
正当なエッセンスがあるような宮廷を作っていた

長徳2年(996) 定子 第一子懐妊
関白 藤原道隆(定子の父) 死去
生前 定子の兄 藤原伊周(これちか)に関白を
継がせようとしたが 周囲に反対され果たせなかった

長徳2年(996) 藤原伊周ら花山法皇を襲撃
事件の収集にあたったのが藤原道長
道長は道隆の弟だった
藤原伊周ら流罪となる
不運は続く 長徳2年(996) 中関白家邸 全焼

昨の禁家 今滅亡す 古人云わく「禍福は糾(あざな)へる縄のごとし」
藤原実資「小右記」より

定子落飾
火の粉は清少納言にまで及んできた

候ふ人たちなどの 「左の大殿方の人知る筋にてあり」とて
さしつどひ物など言ふも 下よりまゐる見ては ふと言ふやみ
はなち出でたるけしきなる
「枕草子」より

寝返り疑惑
疑われたのは頻繁に訪れていた藤原斉信だった
斉信は道長の親友だった

ただ今まかづるを 聞ゆべき事なむある
見るべき事ありて 上へなむのぼりはべる そこにて
清少納言 休職し里に下がる 

藤原斉信 天皇の秘書官長(蔵人頭)清少納言と交友があった
上臈・中臈・下臈といって清少納言は中臈の女房だった
前夫 橘則光は道長派に取り込もうとやってきたのは
斉信の部下だったから
同じ時期、清少納言から文が届いた
ひとひらの山吹の花びら「言はで思ふぞ」と認められていた
清少納言 あなただけは帰ってきてほしい 
という思いが込められていた
道長VS清少納言

長徳2年(966)7月 大納言 藤原公季の娘・義子 入内
同年11月 右大臣 藤原顕光の娘・元子 入内
道長の娘 藤原彰子 入内させようとしていた

長徳3年(997) 一条天皇 藤原定子を環俗させる
天下 甘心せず 「彼の宮の人々 出家し給はざるを称す」と云々
太だ希有の事なり
藤原実資「小右記」より

枕草子を書き始めていた
古典の写しではなく 自分自身の言葉を綴ったのだ
そこにはさりげなく定子へのメッセージを忍ばせていた

定子は第一皇子 敦康親王と二人の娘を儲けた しかし三人目を出産した
翌日定子は崩御した
長保2年(1000) 藤原定子 死去 享年24
清少納言は定子の最後を看取った
定子は鳥戸野陵に埋葬された
定子は一人ここに眠ることとなった

定子の辞世の句 
煙とも雲ともならぬ身なれども草場の露をそれとながめよ

清少納言が定子の思い出の記を書いてばらまくことで
人々の中で定子の思い出が広まる
その中では定子は非常に聡明で明るく笑っている
その思い出が蘇り定子は悲劇的な人ではなかったんじゃないか
楽しく自分の文化というものを体現し
生き抜いた人だったんじゃないか
それが定子の思い出の記の果した役割だったのではないか

源氏物語「桐壺」の更衣は定子をモデルにしたと言われている

治歴4年(1068) 後三条天皇 即位
長く続いた摂関政治は終焉を迎えた

敦康親王を存在価値を示した
品のいい脅迫として機能していった

道長は枕草子に対抗するために 紫式部のほかに
和泉式部とか伊勢大輔とか 当時名だたる文化人
女性たちを後宮に入れた
源氏物語もそうだが 女性は自分の生をかけて
書きたいことを書いている それが素晴らしい感性だったり
人生における喜び 苦悩 悲しみというものが
現代の私たちが読んでも 非常に普遍的なものとして伝わってくる

小説とか随筆とか書評とか論説とか いい散文を持っている文化は
実は社会の最大の未来へのインフラだと思う

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