2024年7月17日水曜日

北里柴三郎 ザ・プロファイラー選

梅雨の雷花芽をつけたミニトマト
弱々しい挿した脇芽やさつき雨
沼酸槐(ぬますぐり) 鳥に横取りされし夏
夏の鳥徒党を組みて沼酸槐(ぬますぐり)
鳶鳴けば鳴りを潜めん夏の鳥

■ザ・プロファイラー選 伝染病に立ち向かえ!北里柴三郎
予防医学の礎を築いた
人に熱と誠があれば何事も達成する
破傷風、ペスト等の未知の病を解明 医学の進歩に貢献
日本人初!ノーベル賞候補に
国民の衛生状態を向上させたい

医者と坊主は一人前の人間がする仕事ではない 「北里柴三郎伝」
1853(嘉永5)年 熊本県に9人兄弟の長男として誕生
「肥後もっこす」そのままだった
日本ではコレラ・赤痢の大流行で死者10万人も出ていた
柴三郎5歳のときに弟と妹を疫病で失う
1871(明治4)年18歳 職業軍人になることを志した
しかし両親は猛反対 医者になるべく医学所への進学を薦めた
オランダ人医師のマンスフェルトとの出会い
柴三郎は語学だけを学び将来は軍人になりたいと話した
「今日一日も無駄にしてはいけない」と助言された
「医学も決して無用な学問ではない」と言われた
マンスフェルトは柴三郎に顕微鏡を見せた
柴三郎は異常な興奮を覚えた
そして「医学もまた学ぶに足りる」と思った
1874(明治7)年21歳 東京医学校に入学
演説会、討論会、ストライキなどの参加し活躍した
1878(明治11)年25歳 「医道論」
自分の目指す医学について記されていた
目指すは治療医学ではなく予防医学だった
人民に健康法を説いて身体の大切さを知らせ
病を未然に防ぐ これが医道の基本
1883(明治16)年30歳 東大医学部を卒業
乕(とら)16歳と結婚 仲睦まじく後に4男3女を儲ける
北里は内務省の衛生局に勤務
月給 地方病院の院長 210円 内務省衛生局 70円
学術を研究し国民の衛生状態を向上させたい(研究所員の証言)
2年後 1885(明治18)年32歳 医学先進国ドイツに留学

第1回ノーベル賞の最終候補になった
1886(明治19)年32歳 ベルリン大学(現フンボルト大学)
率いていたのは細菌学者ローベルト・コッホだった

私はその時ドイツ語のうまい日本人が来たという印象しかなかった
(後年のコッホの証言)
来た里菜珍しい男です 我々ドイツ人にも彼ほどの勉強家は見当たらない
(北里柴三郎伝)
細菌学は最新の学問で1年2年では学びえない事だけはお分かりでしょう
細菌学研究に関しては私に一任していただきたい
(北里柴三郎伝)
研究室にとどまり 破傷風の研究で成果を収める 
純粋培養(特定の菌だけを取り出して培養すること)
北里は諦めなかった 亀の子シャーレを開発
1889(明治22)年36歳 世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功する
菌そのものではなく破傷風菌が出す毒素を入れた 
血清を患者に注射することでたちまち完全が見られた
結果抗体ができそれが免疫となったのである
血清療法を呼ばれた
北里とベーリングの共同論文(1890年)
「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」
しかし第1回ノーベル医学・生理学賞受賞したのは 
エミール・フォン・ベーリングだった
後に彼が語った言葉
私が短期間で研究を完成できたのは北里の感嘆すべき
破傷風の研究結果と彼の協力があったからである

北里は1901年に帰国していてコレラ・赤痢に対する対策に
忙しくしていた ノーベル賞について頓着していなかったのではないか

学び得たすべての術で我が同胞の苦しみを救いたい
(ケンブリッジ大学へ送った手紙)

1892(明治25)年39歳 日本に帰国
内務省では新たな研究所を計画 これに横やりを入れてきたのが文部省
文部省と北里との確執が原因だった
脚気とはびたみんB1の欠乏によって下半身のしびれや心不全を起こす疾患
1885年緒方正規 東京帝国大学教授が脚気の原因は脚気菌と論文で発表
北里は脚気の原因を強く否定したのだった
その説に非があるとすれば たとえ父子兄弟師弟といえども
批判すべきなのが学者の一大義務と考える
(医学雑誌に送った手紙)

研究する場所もなくしてしまった北里に手を差し伸べたのは福澤諭吉翁だった
優れた学者がいるのにそれを無駄にするのは国の恥である
(北里柴三郎伝)
1892(明治25)年39歳 私立伝染病研究所 設立
ジフテリアの治療では成功率90%
若手の指導では「肥後もっこす」を貫いた
所員は敬愛を込めて「ドンネル(雷)」と呼んだ

北里先生のところへ行きますと何だか威圧された
押っかぶせられたようなかんじがいたしました
しかし どういうものか甘えてみたいという気分も致しました
野口英世や志賀潔のような優秀な研究者が育っていった
(部下の証言)

私は大学を出たばかりの若造だったから
先生の研究助手というのが本当であった
然(しか)るに論文を発表するに当り
先生は私一人の名前で書くように言われた
赤痢菌発見のてがらを若僧の助手1人にゆずった先生を
私はまことにありがたきものと思うのである
(人間の記録5 志賀潔 或る細菌学者の回想)

1894(明治27)年41歳 香港でペストが大流行
2名の研究者が感染 一命はとりとめた
ペスト菌を発見 帰国後着手したのはペストの予防対策
血清の開発も進めた 法律の制定にも着手 
1897(明治30)年43歳 伝染病予防法 制定
1899(明治32)年46歳 内務省管轄の国立伝染病研究所になる

学問や知識は人々に普及させなければ
世のためにならない
ことに医事衛生においては学問と生活を
結びつけるのが学者の責務である
(北里柴三郎伝)

ドイツのコッホ研究所 フランスのパスツール研究所 
と共に世界三大研究所と呼ばれた

1914(大正13)年61歳
内務省から文部省に移管されるという通達を受けた
研究機関である伝染病研究所は文部省が監督すべき
東京帝国大学の傘下に入れるというものだった
これは北里にとって受け入れがたいものだった
1914年10月20日
私は昨日きっぱりとこの職を辞した 
しかし諸君らにはまだ開かれた未来がある
一路研究に励み国家のため学問のために
ますます奮励されることを望む

北里先生が去られ我々だけが留まるわけにはいきません
研究員35名も辞表を提出 ほぼ全員が研究所を辞めた
(北里柴三郎伝)

今度自分は伝研を辞め若い者に意思を継がせたいと再三話したが
どうしても行動を共にすると言って聞き入れてくれない
皆の熱意を無視するのも忍びないので
それに伴う資金に貯金の大部分を当てたいが(北里)
どうぞ役立てていただきましょう(乕とら)
(息子の証言)

北里は61歳のとき研究所を退職し資材を投じて研究所を作ることとした
1915(大正15)年62歳
この研究所で取り組んだのはスペイン風邪と結核の対策
スペイン風邪はウイルス性のインフルエンザ

1931年6月13日 北里柴三郎 死去(78歳)
脳溢血で倒れ人生の幕を閉じた

2015(平成27)年 北里研究所 大村智氏受賞
受賞理由:線虫感染症の新しい治療法の発見

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