2024年7月10日水曜日

偉人・敗北からの教訓 第51回「渋沢栄一」

朝咲きて夜には落つる夏椿
夏蛙あっけらかんと無神経
夕立や良くも悪くも遠慮なく
したたかに慇懃無礼青嵐
有り余る鈍感力や夏の雲

■偉人・敗北からの教訓 第51回「渋沢栄一・挫折だらけの実業界の父」
お札に選ばれた理由には企業家精神を鼓舞するためという意味があった
渋沢栄一の栄光と挫折
日本資本主義の父
1840年 武蔵国血洗島村(埼玉県深谷市)生まれ
染料となる藍玉農家に生まれる
身分制度を支える幕藩体制そのものを崩壊させないと日本は駄目になる
身分制度の理不尽を痛感
日本は外圧(外国からの圧力)を跳ね返せない
1860年(27歳)桜田門外の変 倒幕を志すようになる
計画は未遂に終わり京都に逃れる
横浜の焼き討ちを企てる
1864年(25歳)一橋家に仕える
1866年慶喜が15代将軍に就任
倒幕を企てながら一橋家に仕官
一橋家の家臣から幕臣となる
一橋家の財政と軍事の強化に尽力する
徳川慶喜が意図とは逆に幕臣へ十五代将軍に就任
幕府随行員として欧州に渡る
パリ万博を視察する随行員に選ばれる 
帰国後 明治政府に仕える
商法会所を設立(藩内の商人や豪商たちから
出資を募り藩の資金と合わせ合本組織を作る
資金や知恵を集めて公益事業を展開する会社を経営していく
新政府に出仕大久保利通と大隈重信の積極財政 
渋沢栄一の緊縮財政が亀裂となった
井上薫が辞任 渋沢栄一も追随し大蔵省を辞職明治6年(1873)
「金・人・物・アイデア」4つの要素を循環させ
富を生み出していく仕組みがあることを学んだ 
渋沢栄一が起業または支援した会社・団体 約500社
約500の会社・団体の設立や経営に参画
三井組 小野組 共同出資者として明治6年(1873) 第一国立銀行を設立
1年経たないうちに小野組が破綻
宇和島の伊達家が大口出資者となる
1873年(34歳)抄紙会社(王子製紙の前身)設立
抄紙会社の経営難から巨額の負債を抱えてしまう
政府が方針転換!「国が紙幣を作る」と言い出した
渋沢栄一敗北 政府との契約が反故に

近代化を促進すべく奮闘した渋沢栄一の敗北の原因
敗北の伏線~挫折だらけの青春期~

自分の身の上はあたかも蚕が最初 卵種から孵化して
四度の眠食をかさねそれから繭になって蛾になり
再び卵種になる有り様で二十四、五年間に
ちょうど四回ばかり変化しています
自伝「雨夜譚(あまよがたり)」より

渋沢栄一 敗北の伏線
人生は思い通りにはいかぬもの
時の流れに身を任せることも肝要

渋沢栄一 敗北の瞬間
人生は予期せぬアクシデントの連続
苦い経験を糧として進めば道は開ける
失敗に挫けてはいけません

富をなす根源は何かと言えば仁義道徳
正しい道徳の富でなければ
その富は完全に永続することができぬ

道徳と経済は相反するものではなく
両立すべきものである

昭和6年(1931)11月11日永眠92歳

人を見るに単に成功とか また失敗とかを
標準とするのが 根本的誤りではあるまいか
成敗は身に残る糟粕(そうはく)
「論語と算盤」より

企業は道徳と経済性の両立を図るべし
企業の社会的責任を重視し 金儲けすることは
悪いことではないけれど 交易や利他を重んじていこう
ということを渋沢は主張している

社是や企業理念として「論語と算盤」を
基盤としているケースが多々ある
外国企業とは一線を画した中長期的な経営方針という
渋沢の理念が今日の日本の繁栄を生んだ
日本女子大学の校長に就任したのが91歳

ブルバインドとは二つの矛盾した命令を
他人に与えている状態のこと

渋沢栄一の人生から学ぶべき教訓
思考を停止するべからず

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