2024年7月14日日曜日

津田梅子 ザ・プロファイラー選

若葉山でがらし冥利後世へ
水床湾水面に浮かぶ梅雨の星
青嶺(せいれい)や怠惰と孤独謳歌せん
ミニトマト未だに花芽つけませぬ
汗みどろ苦土石灰と木酢と

■ザ・プロファイラー選 女性の可能性を切りひらけ!津田梅子
津田梅子 津田塾大学創立者
1864(元治元)年12月31日 津田梅子誕生 梅(むめ)と命名
意志が強く好奇心旺盛だった

6歳の時 岩倉使節団が女子留学生を募集
森有札(後に文部大臣となる)が女子教育の重要を訴えていた
募集内容は14歳までの少女 帰還は10年

津田仙(梅の父)は行かせたいと思った
「姉は家から遠く離れた所に行きたくなかったのです
 私だって両親のもとを離れたくなかったですが
 それでも私はアメリカに行くことを望んだのです」
幼少期の梅子の作文

山川捨松(11歳)上田悌子(14歳)永井繫子(8歳)吉益亮子(14歳)津田梅子(6歳)
日本初の女子留学生としてアメリカへ渡った
皇后の沙汰書が渡されていた
「帰国したあかつきには女性の模範となるよう留学中勉学に励むように」
1871(明治4)年12月23日 岩倉使節団アメリカへ出航
総勢107名の旅
梅子が見たアメリカ社会は❓
女性の社会進出がはじまっていた
セブンシスターズという大学が生まれていた
2人が帰国 残った3名捨松、繁子、梅子は結束を強めた
後に終生の友となった
梅子はランマン夫妻に引き取られた
アメリカ生活9か月で梅子が書きあげた本 A little girl’s stories

日出ずる国から訪れた太陽の光でありわが家を明るくしてくれた
ランマン氏覚書

(日本の)家の人たちは私の性格について何一つ知りませんから
彼らの望むように振る舞うよう努め 新しい生活において
わずかでも役に立ちたいと思います
梅子の旅日記

山川捨松は日本人女性初のアメリカの学士号を取得
一緒に学校を作ると希望に胸を膨らませた梅子
11年間の留学で英語力・教養を身につけた
1882(明治15)年17歳 日本に帰国
感動の再開のはずが、全く意思の疎通が取れなかった
梅子は日本語を忘れていた 

新しい環境になれるのに時間がかかっている
ランマン夫人宛の手紙
移植された木のようで変な感じがします この時17歳

帰国後 苦難の連続 日本語がわからない

「どうか2度と結婚について書かないでください」梅子
帰国後、学校設立の夢を抱き教師として働きたかった

女性の人生には我慢しなければならないことがいろいろとあります
アメリカでも私は男性だったら良かったのにと思いました
日本ではなおさらです!
今結婚すれば留学費用が無駄になる
何よりも必要なのは健全な教育を受けることができる女子のための学校
まだ計画は空想の段階でもし私たちにそのような事ができれば
それは壮大な仕事となるでしょう
ランマン夫人宛の手紙

1883(明治16)年梅子18歳 山川捨松が大山巌結婚

日本は結婚しないと身動きが取れない社会
既婚女性こそが成し遂げられることがある
アリス・ベーコン宛の手紙

捨松は鹿鳴館で外交に尽力した 鹿鳴館の花と呼ばれた

捨松は彼(大山巌)を尊敬し好いています
しかし捨松は教えません
参議(政府首脳)の妻が教えるなんてありえません
私も彼女の助けなしに一人で教えなければならなくなり残念です
父は結婚について何も言わないので
私も年がいっても全く心配していません
私は誰の言いなりにもなりません 私は相変わらず頑固なんです
どうか2度と結婚について書かないでください
自分が結婚したいと思わなければ結婚しません
一生結婚しないとは言いませんが
ランマン夫人宛の手紙

「私のこと覚えておいでかな?」伊藤博文
岩倉使節団以来、12年ぶりの再会だった
伊藤家の英語教師として住み込みで務めることに
ちょうどこの時1885(明治18)年梅子20歳
伊藤は「家族女学校」(現在の学習院女子大学を設立に関わっていた
捨松も顧問として参加していた 伊藤と捨松の推薦で英語教師となる

日本女性の地位は低い 
だが女性たちはその事への問題意識があまりにもなさすぎる
ともかく今の生活を打ち破り新しい境遇にでなければならない
通常の人生を歩むなら十分な教育はすでに受けていると
言えるかもしれませんが私はもっと教育を受けたいのです
自分の仕事に十分に準備をしたいですし 日本には
能力や力量を持った人々が必要なのです
ランマン夫人宛の手紙

梅子2度目の留学 梅子24歳 目的 英語の教授法を学ぶ
華族女学校から2年間の有給研究休暇扱いにしてもらった
2年後留学の1年延長を願い出る 
華族女学校は留学は認められたが給与は出して貰えなくなった
自費での留学を決めた
ブリンマー大学の教育方針は女子にも男子と同じレベルの学問を
この大学ならではの科目を選択「生物学」
持って生まれた天分を伸ばしてみたい
女だからと言って学問をしてはならないということがあるはずがない
一つの細胞に宿る生命は奇跡以上の奇跡
吉川利一「津田梅子」より

明治天皇「御親喩(ごしんゆ)」
女子は将来夫に仕え 家をおさめるのであるから 程度の高い
学問的な訓練に重きをおくべきではない 化学理学などの科目は
華族の女子にふさわしくなく学ぶべきではない

しかし梅子は生物学に寝食を忘れる程に没頭していく

梅子はいかめしい抑圧は置いてきていた
友人たちと自然な自分で自由に明るく行動していた
アナ・ハーツホン覚書

1891(明治24)年26歳
留学の1年を願い出る 卒業を方便に使った
もう一つ目的ができる 奨学金制度の創設
基金を立ち上げ1年間お金を集める その利子で留学生を送り出す

普通の日本女性では容易に得られない
機会があったからこそ充足感に包まれた
そう思うと同じ機会を日本の女性に与え
喜びを分かち合うのが私の義務ではないか
吉川利一「津田梅子」より

梅子は女性教育に関心がある人々への講演会を開催
アメリカ富裕層の婦人たちの心を打った
その結果1年で8,000ドルが集まり
4年に1人日本人女性が留学可能になった

生物学でも実験助手として研究者として才能を発揮した
トマス・モーガン教授との共著「カエルの卵の発生」は
イギリスの学術誌「Quarterly jurnal of Microcopical Sciencel」
に掲載された。
トマス・モーガン教授は1933年 ノーベル生理学・医学賞受賞

彼女はこういう仕事に必要な資質をすべて兼ね備えている
鋭い眼力と想像力 そして科学的な正確さへの感情的なまでの愛を
アナ・ハーツホン覚書

卒業が近づくと梅子をトマス・モーガン教授やアナ・ハーツホン学部長は高評価
大学に残って研究を続けるよう提案

しかし、帰国を決断

学問をする本当の意味を理解していない選択
梅子にとって唯一の近視眼的選択だった
アナ・ハーツホン覚書

梅子は学校創立の夢を諦められなかった
1892(明治25)年アメリカ留学から帰国 27歳

学校創立は使命 女子にも高等教育を

少数ながら目覚めた女性はすでに高等教育を望んでいる
否!新しい日本が教養ある女性を求めている
吉川利一「津田梅子」より

1892(明治25)年9月 27歳 華族女学校に復職
政財界の支援を受けて創立の準備中の学校があった
日本女子大学(家政学に重きをおく)
しかし梅子は自力で資金を調達 アメリカ富裕層の婦人たちが支援
トマスも支援者の一人に

1900(明治33)年7月 35歳 華族女学校を辞職
破格の報酬と名誉を捨てた

私は自由になりました そして 後戻りする船をすべて燃やしました
友人宛の手紙

1900(明治33)年9月 「女子英学塾」を開校
学生は10人梅子が訴えたかったのは官立の女学校の「良妻賢母」
ではなく 女子英学塾は「新たな女性像」だった

英語の専門家になろうと骨折るにつけても完(まっ)たき婦人となるに
必要な他の事象をゆるがせにしてはなりません
完たき婦人即ちall-round womenとなるよう心掛けねばなりません
「武士道」を記した新渡戸稲造による講義もあった

梅子には教育の理想があった
真の教育をするには少人数に限ると思います
吉川利一「津田梅子」より

梅子の教育の理想は 少人数教育 を行なった

しかし理想だけで学校設立後は経営難が続いた
資金繰りに苦しんだ そのため支援を求める手紙を書きつづけた
1か月に300通も出したことも
そんな梅子の心の支えは友人たちだった
アリス・ベーコン アナ・ハーツホン
無報酬で授業を受け持ってくれた
大山捨松は顧問 瓜生繁子は職員として支えてくれた

英語教師を目指せ 経済的な自立 そのため梅子の授業は厳しかった
厳しい授業についていけず辞めていく生徒もいた
厳しい授業についてきてくれる生徒は無上の喜びだった
1903(明治36)年38歳 第1回卒業式
ハイレベルな英語力 2年後には卒業生は英語教員資格試験が免除になった

1913(大正2)年卒業式のレコードより卒業生に対する訓話
少数の人々に限るのでなく家庭という領域さえ超えて
気高い志 ひたむきな熱心さ 広く共感できる力を
多くの人々にささげることができるなら どんなに弱い我々でも
人生を実りあるものにできるでしょう

日本での女子教育 教師になって女性のための学校を作りたい
梅子は拘ったのは教育の信念 all-round women
女子教育の未来を夢見た梅子
脳梗塞に倒れ、何度も入退院を繰り返すも
1929(昭和4)年8月16日 津田梅子死去(64歳)
生涯独身だった

この永遠の世界の中で 私自身や私の仕事は
どんなに小さいものか 自覚しなければならない
一粒の種は砕かれ地に落ち新たな草木が生える 
ということを
津田梅子の日記

1976(昭和51)年まで25人の留学生を送り出した
その中には 同志社女子大学校長 松田道 
恵泉女学園創立者 河合道 の名も…。

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