2024年7月29日月曜日

こころの時代 ヴィクトール・フランクル(4)人生という「砂時計」

遠慮は無用とはいうものの蝉の声
油蝉風の音さえかき消して
蝉時雨あなたの声も聞き取れず
親のご機嫌取るだけの日々夏休み
あなたとの思い出はなし夏休み

■こころの時代 ヴィクトール・フランクル(4)人生という「砂時計」
日本ロゴセラピスト協会会長 勝田茅生(かやお) 作家 小野正嗣

「ほら、あそこだ」手が伸びて、数百メートル離れた煙突を指さした。
煙突からは数メートルの高さに不気味な炎が吹き出して、
まっ黒な煙となって消えていく。
あそこがどうしたって?
「あそこからお友だちが天に昇っていってるところだ」
「夜と霧」アウシュビッツ第2収容所ビルケナウ

ヴィクトール・フランクル(1905~1997) オーストリアの精神科医

四歳の時であったと思う。ある晩、
眠りに入る直前にはっと飛び起きたことがある。
自分もいつかは死なねばならないと気づいたからである。
「フランクル回想録」

ここに強制収容所で亡くなったために遺骨が
みつかっていない家族の名前もきざまれています。
私もいずれここに入る予定です
死ぬのは怖いですか❓
怖くはありません
本当に怖いのは「生きなかった」ことです
つまり大きな意味で正しいことや大切なことをする機会を
十分に生かさなかったとしたら深い悲しみを感じると思います
しかし自分に対して「多くのことを成し遂げることができた」と
思えるのなら これほど素晴らしいことはありません

砂時計の上の部分には、まだこれからの未来があります。
それは、これから起こることです。
そこには砂時計の狭い部分をすり抜けて
下へ流れ落ちる砂が入っています。
砂時計の下の部分には、すでに起きた過去があります。
それは狭い部分をすでに通過してしまった砂です。
そしてこの狭い部分は現在を示しています。
下に落ちた砂粒はそこで固定されます。
それはあたかも砂時計の下の部分に
凝固剤のようなものが入っているかのようです。
あるいは、保存添加物が入っているかのようだ
と言ったほうがより適切かもしれません。
というのも過去の中では過ぎ去ったものは
本当にすべて「保存される」からです。
これは「大切に取っておかれる」
「長期にわたって貯蔵される」という意味なのです。
「Der Wille zum Sinn」

過ぎ去った時間を元に戻すことはできません。
けれども、その中で起こった出来事は侵されることも
傷つけられることもありません。
悲観的に考える人は、日めくりカレンダーの前に立って、
毎日一枚ずつ切り取られていくカレンダーがどんどん
薄くなっていくのを不安と悲しみの気持ちで
見つめている人と同じです。それに対して、
その人が生きた事実は永遠に守られると考える人は
カレンダーから切り取った紙を今まで切り取った
紙の上にきちんと注意深く載せていくのです。
そしてその紙の裏に日記のようなメモをすれば、
今までこのメモの中に書かれてきたことを、
―人生の中で今まで確実に生かされてきたこと-
に対して誇りと喜びをもって思いを馳せることでしょう。
「医師によるメンタルケア」

その人は収穫が終わりに近づいている畑だけを見ているのです。
それも恐怖の思いで。過去と言う穀物でいっぱいに詰まった
穀物納屋を見ようとはせずに、できるなら時間が静止して、
すべてのものがなくなってしまわないようにと願っているのです。
けれどもこれは刈り取り機を作動させたまま止めたい、
この機械が前進せずにいてほしいと、望むようなものです。
というのも、この刈り取り機が畑の上を移動していくと、
いつも刈り取られた部分がどんどん広がっていく光景しか
見られないからなのです。そして機械の中でどんどん増えていく
穀物の量の方は見ようとしないのです。
「Der Wille zum Sinn」

砂時計の砂が全部下に流れ落ちてしまったら
どうなるのでしょう❓
もし時間がすべて流れ去って
なくなってしまったらどうなるでしょう?
これが死ということなのです。
死の中で全てのものが不動になります。
私たち人間はそこではもう何も動かすことができません。
生きている人間には過去と未来とがあります。
死にゆく人には未来はもうありませんが、
その代わりに過去だけがあります。
亡くなってしまった人には自分が過去としてあるのです。
人間は死ぬことで初めて世界の中に生み出されるのです。
そして自分自身は死ぬその瞬間に初めてでき上がるのです。
「Der Wille zum Sinn」

私たちは一般的に、自分の人生を奪い去る死を
自分の身に起こる最も恐ろしいことだと思い込んでいます。
そして私たちを眠りから覚ましてくれるこの優しい手が、
たとえどんなに優しく触れたとしても私たちは
その優しさを感ずることができないのです。
それどころか、その手が私たちの眠りを
追い払っていると感ずるや否や、これを今自分の見ている
夢を中断する忌まわしい妨害のように思ってしまうのです。
そして、この死がどんなに私たちのためを思ってくれているか、
そのことに思いを馳せることはほとんどできないのです。
「Der Wille zum Sinn」

輝く日々-
それが過ぎ去ったことを泣くのはやめよう 
その代わりかつてそれがあったことを思い出して微笑もう
「Bergerlebnis und Sinnerfahrung」

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