繰り返す公転自転おどり草
いつも心ににんげんだもの秋の空
今日こそは尻持ち上げん秋の声
好き勝手鉄砲百合の乱れ咲く
のびのびと鉄砲百合の気ままかな
■夏井いつき俳句チャンネル
【第14回おしゃべり俳句】優秀句の発表です♪【後編】
花ぐもり今日はかなしい時間割 さやぽよ11歳
花疲れねむいにしはいされている 大史華家8歳
雪なんよ何回生まれ変わっても 小物打楽器9歳
冬雀あの木は前は林檎の木 すがわらあつひと6歳
寒雀あの木は前は林檎の木 すがわらあつひと6歳
■リクルートメント現象とは
リクルートメント現象(補充現象ともいう)とは、内耳の障害により、
音の大きさの変化に対して聴覚過敏になる現象です。
具体的には、小さい音は聞き取りにくいのに、音量を少しでも上げると
急激に大きく、うるさく、響くように聞こえ、正常な聴力者よりも
小さい音量で不快な感覚を覚える状態を指します。
この現象は、メニエール病や突発性難聴などの内耳性の難聴で起こりやすく、
日常生活で「音が響く」「うるさく感じる」といった不快な症状として現れます。
■高村幸太郎の短歌
あながちに悲劇喜劇のふたくさの此世とおもはず吾もなまづも
木彫《鯰》の作品を包む帛紗に書かれていた短歌
揮毫された短歌は「あながちに悲劇喜劇のふたくさの此世とおもはず吾もなまづも」。
「あながちに」は形容動詞「あながちなり」の連用形。
あえて現代語訳すれば「この世の中というものは、
「悲劇」と「喜劇」との二種類にむりくり分類できるものだとは思わないよ、
私も、そしてこの鯰も」という意味だとか…。
■木村多江の、いまさらですが…
印象派とゴッホ~画家を支えた画商と家族~
フィンセント・ファン・ゴッホ
印象派 画家たちを広めた人物
印象派の特徴
「印象、日の出」クロード・モネ1872年 印象をダイレクトに表現
「小舟」ピエール=オーギュスト・ルノワール1875年
筆触分割
「ダンス教室」エドガー・ドガ1873-76年
都市生活 郊外の風景 身の回りの日常
「草上の昼食」エドゥアール・マネ1863年
当時のパリは産業革命を経てナポレオン3世の命により1853年パリ改造
1855年1867年パリ万国博覧会が開催された
「ポン・ヌフ・パリ」ルノワール1872年
「ラ・グルヌイエール」モネ1869年
宗教 神話 歴史 アカデミックのものが主流だった
それに不満を持っていた
ルノワール モネ マネ ドガ ピサロ セザンヌ シスレー
バジール 展覧会を開こうという気運が しかし
1870年 ルノワール モネ ピサロ バジール 普仏戦争が勃発
画家バジールは普仏戦争で戦死 1871年パリ・コミューン
1874年 モリゾ ルノワール モネ ドガ ピサロ セザンヌ シスレー展覧会を開催
後に印象派展と呼ばれるようになった
審査のない自由な展示 この時モネは「印象、日の出」を発表していた
それを揶揄して「印象派」の語源となった 革命的な芸術へのやっかみだった
「睡蓮 緑のハーモニー」クロード・モネ1899年
「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」ピエール=オーギュスト・ルノワール1876年
マネはサロンでの成功を重視したため再三の誘いにもかかわらず印象派展には参加しなかった
「エトワール」エドガー・ドガ1876-77年頃
そのドガを慕っていたのがメアリー・カサット
「青い肘掛け椅子に座る少女」メアリー・カサット1878年
「子どもの入浴」メアリー・カサット1893年
印象派の人間ドラマ
「床に鉋をかける人々」ギュスターヴ・カイユボット1875年
カイユボットが買い集めた作品が没後に国家に遺贈され
のちにオルセー美術館の印象派コレクションの核となる
カミーユ・ピサロ みんなより10歳年上でパパ的存在だった
「白い霜」カミーユ・ピサロ1873年
「羊毛をほぐす農婦」カミーユ・ピサロ1875年
「印象派展」のその後 印象派を広めた画商
印象派展は1874~1886年の間に8回開催されました
その間辛抱強く支えたのがポール・デュラン=リュエル(Paul Durand-Ruel)
1870年ロンドンに渡り彼らと知り合い援助した
1886年アメリカ ニューヨークへ300点を持ち込み展覧会を開催
これで有力な顧客を獲得
「積みわら、夏の終わり」クロード・モネ1891年
等が受け入れられた
アブサン:アルコール度数が高い薬草系のリキュール
ニガヨモギ アニス ウイキョウなどのハーブやスパイスが原料
「カフェにて」エドガー・ドガ1875~76年頃
「アブサンが置かれたカフェテーブル」フィンセント・ファン・ゴッホ1887年
ポスト印象派とは?
「グランド・ジャット島の日曜日の午後」ジョルジュ・スーラ1884年~86年
点描技法
ジョルジュ・スーラ:1859年生まれ パリ出身
盟友のシニャックとともに「新印象派」ともいわれる
「林檎採り、エラニーにて」カミーユ・ピサロ1888年
「りんごとオレンジ」ポール・スザンヌ1895~1900年
ポール・スザンヌ:1839年生まれ 銀行家の家に生まれる
作家ゾラとは親友だった りんごはゾラとの友情の証
多視点
「サント・ヴィクトワール山」ポール・スザンヌ1904~06年
それに飽き足らず精神性や内面性にクローズアップしていったのが
ポール・ゴーギャン
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
ポール・ゴーギャン1897~98年
フィンセント・ファン・ゴッホも自らの経験や
浮世絵に描かれている日本の文化から影響を受けて
深い精神性を絵に込めている
誰がゴッホを広めた?
深愛の画家 フィンセント・ファン・ゴッホ
27歳にして1880年画家になる事を決意
「小屋」フィンセント・ファン・ゴッホ1885年
「モンマルトルの菜園」フィンセント・ファン・ゴッホ1887年
オランダからフランスに移り住んだことが大きな転機となる
オランダ時代 デッサンに集中
「ジャガイモの収穫 農村の12カ月(10月)」
「ル・モンド・イリュストレ」紙より
レオン=オーギュスタン・レルミット 1885年
「坑夫、「民衆の顔ⅥJ」
「グラフィック」紙より マシュー・ホワイト・リドリー1876年
1886年 テオを頼ってパリへ 印象派との出会い
「ヴェルサイユ街道、ロカンクール」カミーユ・ピサロ1871年
「フェリシテ号の浮桟橋、アニエール」ポール・シニャック1886年
当時パリはジャポニスムブームでした
「初春の万歳と凧揚げ」不詳1875年頃
「画家としての自画像」フィンセント・ファン・ゴッホ1887~88年頃
1888年ゴッホ34歳の時、アルルへ
この時、後世に残る「ひまわり」フィンセント・ファン・ゴッホ1888-89年
「包帯をしてパイプをくわえた自画像」フィンセント・ファン・ゴッホ1889年
1890年自ら命を絶つ 弟のテオも6か月後に亡くなります
「夜(ミレーによる)」フィンセント・ファン・ゴッホ1889年
「星月夜」フィンセント・ファン・ゴッホ1889年
「夜のプロヴァンスの田舎道」フィンセント・ファン・ゴッホ1890年
ジャンーフランソワ・ミレー:1814年フランス出身代表作「落葉拾い」「種まく人」
バルビゾン派を模写した作品を書いている
「麦を束ねる農婦(ミレーによる)」フィンセント・ファン・ゴッホ1889年
「木底の革靴」フィンセント・ファン・ゴッホ1889年
テオの妻ヨーの尽力により現在に至る二人の息子はオランダに帰り
下宿屋をしながら画家や作家、美術評論家との関係を築き
地道にゴッホの作品を売っていった
1905年アムステルダム市立美術館へ480点を超える展覧会を開催することとなる
ヨーの功績としてテオへ送ったゴッホの手紙をまとめた本を作製
そこにはヨー自身が序文を記している
ゴッホの伝記を書いています
「りんごとオレンジ」ポール・セザンヌ1908-09年
「The Fruit Dish」ジョルジュ・ブラック1908-09年
キュビズムを生み出すことになった
アンデパンダン展:無審査・無賞・自由出品を原則とするアカデミーなど
既存の団体を介さない独立した美術展
「夢」アンリ・ルソー1910年 「豪奢、静寂、逸楽」1904年アンリ・マティス
「家族」藤田嗣治1923年 「接吻」グスタフ・クリムト1908-09年
等に影響を与えた
美術界における革命でした
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