2025年1月16日木曜日

100分de名著 安克昌①

蒼き空悴(かじか)む手足時間待ち
降り注ぐ冬の陽射しは誰のため?
冬の風信号待ちをする烏
手足にはワセリン湿布春を待つ
キャベジンが効かなくなった冬の夜

■100分de名著 安克昌(あんかつまさ)
”心の傷を癒すということ“1 そのとき何が起こったか
宮地尚子(精神科医・一橋大学大学院教授) 伊集院光 阿部みちこ
安は震災から5年後に病気により他界 
命を削ってこの本を書いていたと思うと宮地尚子女史

一九九五年一月十七日未明、
どーんと部屋が揺さぶられる衝撃に、私は目を覚ました。
ぱしんと激しい音がして、常夜灯が消えた。
二歳になる娘が「ママ!ママ!」と叫び声をあげた。
妻は「きょうこちゃん、だいじょうぶよ」と言って娘を抱き寄せる。
その後、地鳴りとともに身体が床の上を踊った。
いろいろなものが倒れ壊れる音が、
めちゃくちゃな勢いで耳に飛び込んできた。(中略)
私の、阪神大震災の体験はこうしてはじまった。
見慣れたビルが倒れて道路をふさいでいた。
路地では木造住宅が倒壊していた。
倒れた建物の土ぼこりと漏れたガスの臭いが町中に漂っている。
救急車や消防車が道路を駆け抜けていく。
空は火災による煙で薄暗かった。(中略)
悪夢のようだった。
同じように”信じられない“といった顔つきの人たちが、
路上を行き交っていた。
救急外来の廊下でぼう然とたたずみ、
あるいは悲しみをこらえきれない遺族の姿を見て、
私は被災者の心の傷の深さを思った。
私の同僚の看護婦、医師たちは被災の大きさにもかかわらず、
意外に冷静だった。
むしろ、いつも以上に仕事に打ち込んでいるようだった。(中略)
「たいへんでしょう」と声を掛けても、「命が助かっただけよかったです」、
「だいじょうぶです」、「地震なんだからしかたがないです」、
と自分の被害を控えめに話すのだった。
だが、やはり表情が固く、どこか話し方が抑揚がなく
一本調子であるように私は感じた。
けっして「だいじょうぶ」のはずはない。
頭の中はさまざまな感情でいっぱいなのだろう。

震災から2週間後に新聞掲載を依頼されて執筆開始
それを元に1996年「心の傷を癒すということ」を刊行

自らの体験を被災地の内側から届けなければいけないという使命感で記した
当時「心のケア」という言葉もほとんど知られていない状態だった
震災報道はセンセーショナルなものが多く安さんは違和感を感じていて
「誰かが書く必要がある」と思い書いた
阪神・淡路大震災以降「人によって傷のつき方も千差万別」
「関わり方も人によって合うものが違う」という認識が深まった
表面上見えない心の傷 
衝撃的な体験をしたとき 
その衝撃から心を守ろうとすることを防衛機制という
否認 「自分は大丈夫」と言い聞かせ 
傷ついたことを否定しようとする心の働き
乖離 現実離れした感覚や衝撃的過ぎて
実感が伴わないという無意識の心の働き

平気そうに見えてる中で「無理してるんじゃないか」と
気付くことが周りの人にとってはとても大事なこと

トラウマ(心的外傷)になる出来事
1 凄まじい恐怖
Jさんの住む地域は大規模な火災で焼け野原になった。(中略)
彼女は夫とともに、迫る火の中を逃げまどった。
通り抜けようとした路地が倒壊した民家で塞がれていて
何度も引き返さなくてはならなかった。
路上には「助けて!誰か助けて!」と叫ぶ人たちがいた。
おそらくその人の家族が建物の下敷きになっていたー。
彼女は、そのときの光景を思い出して苦しんでいた。
「しかたなかったんです。私も逃げるのが精一杯だったんです。
助けてあげられなかった。…それで自分を責めてしまうんです。
今も耳元で”助けて、助けて“という声がするんです。
…私も死んでしまえばよかった」
今まで、どのような災害に出会っても、仲間とともに救出、救助、
消火活動をし、この仕事に誇りを持っていた。が、今回は違った。
助けを求めてきている人々に応えることのできない自分の力なさを嘆き、
自然の恐ろしさに驚異を感じた。
「ほんまに消えるんやろか…」あまりにも消防が無力に思えた。

2 無力感にさいなまれる体験
3 戦慄するようなグロテスクな光景
私は倒壊したたくさんの建物を見た。それは家の「死体」だった。
崩れた屋根から、カレンダーや人形や刺繍した敷物や
子どものランドセルなどが散乱している。
見てはならないものを見た、と私は思った。
そこに住んでいた人の生活を想像させる品々に、
私はどうしても「内臓」を連想してしまった。

トラウマとは❓
あまりに衝撃的で言葉にしづらいような
破局的な体験によって引き起こされる心の傷
何ヶ月か経っても記憶が色濃く残り自然に解決できない
また思い出すと同じ位の恐怖を感じる 
そういう場合に「トラウマ」という

1 日常生活の「怖い」というレベルではない
自分だけが生き延びてしまった罪悪感
サバイバーズ・ギルト 
2 もう何の手のつくしようもない手が出せない辛さ
「何もできない自分」という状況にずっとさらされている
3 無残な姿をずっと見なくてはいけない それもトラウマ体験になる

人と人とのつながり
私は学生時代から神戸に住み、もう十五年以上になる。
しかし、ただ住んでいるだけで、地元のコミュニティ(地域社会)に
属しているという実感はなかった。(中略)
だが、地震が起きてから同じマンションの住人が私の部屋を訪ねてくれた。
救援物資をおすそ分けしてくれ、近くで炊き出しがあると妻を誘ってくれた。
すぐ近くに住む友人が、そのまた友人の家に風呂を借りに行くとき、
私の家族に声を掛けてくれた。(中略)
災害の後、生き残った住民はある種の共同体感情の下で身を寄せあう。
これを災害心理学では「ハネムーン現象」「ハネムーン期」という。
しかし、私にとって、それは文献上の知識ではない。
思いがけないやさしさや思いやりを肌で感じ、
人間とはすばらしい存在であると私は思った。
これは真にかけがえのない思い出として、今も胸の内にある。

つながりの再発見
最後「俺たちはピンチだ」というときに
「社会的にみんなで生き残ろう」みたいなものが発動する
基本的に無力じゃないですか 人間なんて大災害の前で
だからこそお互いに助け合うことがどこかで希望であり救いになっている
「どのような社会の繋がりによって生かされてきたのか」を実感する
新たなつながりもたくさん起きる
ハネムーン現象が思いやりのあるコミュニティを育む土壌になる

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