2025年1月14日火曜日

100分de名著 筒井康隆

冬陽背にバゲットにかぶりつく朝
冬の空映えて輝くスピリッツ
くだら野や神は自然と共にあり
冬の雨独りの時間暖かく
窮地をも機知と遭遇冬日かな

■100分de名著 100分de筒井康隆
カズレーサー 中条省平 大森望 菊池成孔 池澤春奈 阿部みちこ

第1章 この世界からの脱走
中条省平選「脱走と追跡のサンバ」(1971)37歳 
カスタネットによるプロローグ
疲れている。一晩中 自分のいびきで眠れなかった。
自由でないのは金だけで、他はすべて自由だった あの時代の「あそこ」にいたおれ。
他はすべて自由だっても、金だけは不自由だったために、金の自由のためには
他の自由を犠牲にしてもいいなどというたわけたことさえ考えていた
あの時代の、「あそこ」にいたおれ。
情報により呪縛、時間による束縛、空間による圧迫、そんなものとは縁がなく、
軽やかに泥水はねとばし、すがすがしく煤煙(ばいえん)を呼吸し、
馬鹿空と腐れ大地の間を飛翔していたあの時代の、「あそこ」にいたおれは
いったいどこへ行ってしまったのだろうか。
もはやいくら考えても問題の解決にはならない。
問題の解決とは、むろんこの世界とあの世界の相違点を見出すことではなく
おれがこの世界から脱出して、あの世界へ戻ることだったではないか。
おれには行動しか残されていない。
そうだ。行動だ。さっそく行動にとりかかろう。脱走してやるぞ!
第1章 情報
その情報に何ら本質的なものがなく、単に末端的な、しかも見せかけだけは
いかにも本質的くさい情報であった場合は、そして、すべての情報が
そんな情報ばかりであった場合は、それはおれの行動の自由だけでなく、
精神の自由さえ奪ってしまうのだ。このにせものの世界のにせものの情報を、
はっきりにせものであると証明した時、おれは呪縛から解放されるに違いない。
「この証書が一枚ありさえすれば、
どんな事態に陥ってもあわてることはありません。
そう。これはザパタ失業保険の保険証書なのです」
(略)情報社会を代表するものが何かは、おれもつきとめたわけじゃないが、
もしかしたらコンピューターじゃないかと思うよ。
だって、テレビ局ってのは、つまりわれわれみたいな人間が
いるだけなんだからね。ただそれだけなんだからね」

テレビの時代と情報社会
虚構としてのドラマからイベントへ どっきりカメラ
「水曜日のダウンタウン」
「露出症文明」(1967) 顔テレでみんなが通信 自分を見せようとしてエスカレート
「映え」の世界 「23時ショー」初代の火曜日の司会が筒井先生 かなりの私小説

でっち上げられた情報だろうが、操作された情報だろうが、
情報となった以上その情報はでっち上げた人、操作した人の手をはなれ、
独立して、あるがままの情報になるのよ (略)情報の質なんて、ないのと同じよ。
情報内容だって、ないのと同じよ 

情報は増えれば増えるほど知識のあり方を揺るがす
情報の過剰によって何もわからない状況になる

「この原子時計が、時間的に正確であるなどということを、いつわたしが言いましたか」

タイムトラベル 自分は一体何なんだ 宇宙の中でひとりぼっち 恐怖 
宇宙的孤独 実存的孤独 

おれにぴったりした空間はやはりどこかにある筈である。
ではそれはどんな空間かといえば、それはおれの内面的世界の問題になってくる。
おれにぴったりした空間とは、おれの内的世界にぴったりの空間である筈で、
問題はその世界を志すあれの精神がどのような空間を
求めようとする精神であるかということになる。
すべての空間あるいは空間的なものは、
ぜんぶ精神や意識に包含されてしまう筈だといえなくもない。
「わたしは、逃げ出そうとすることはもうやめました」
「(略)わたしの精神力によって、この世界を改造するのです。
この世界と、わたしの内的世界をぴったり同じ状態にしてしまうのです。
換言すればこの世界を、私の精神で包みこんでしまうのです」

内宇宙 内宇宙でマルチバースを支配する!
「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」(2022)
精神分析 無意識 夢 
「パプリカ」(1993)「インセプション」(2011)内宇宙での争い
日本は時間SFが優位 内面に潜っていくことで突破する
「虚人たち」(1981) 「馬鹿空と腐れ大地の軽やかに飛翔していた」
脱走した先? 筒井流「アリス・イン・ワンダーランド」

「俗物図鑑」(1972) 松尾スズキ
赤塚不二夫のドタバタギャグ漫画に近いものを感じた
筒井康隆は直木賞に三度落選 松尾スズキは「大いなる助走」が好き
筒井康隆は「大いなる助走」で選考委員を皆殺しにした

芥川賞候補作「クワイエットルームへようこそ」(2005)
「老人賭博」(2009)「もう『はい』としかいえない」(2018)

第2章 心の内を読む
論者 池澤春奈 
七瀬シリーズ「家族八景」(1972) 「七瀬ふたたび」(1975) 「エディプスの恋人」(1977)
火田七瀬 

七瀬シリーズ「家族八景」(1972)
読心ができるため、自分は得をしているとも思わなかったし、
損をしているとも思わなかった。聴覚や視覚の一種であると考えていた。
他の感覚と少し違うところは、感知するために多少の努力を要することだった。
七瀬はそれを「掛け金をはずす」ということばで他の精神作業と区別していた。
テレビのホーム・ドラマを見て身につけた巧みなポーズをとっていた。
「あら。もっと小さなウイスキーグラスがなかったかしら。
それ、シャンパングラスよ」(白痴。田舎者)
他のすべての女性に対して、叡子の心は冷ややかな悪意を向ける。
「いいんだ。でかい方がいい。それで飲むから」と、潤一がいった。
(きいた風なことをいうな。おせっかいの馬鹿女め)
叡子はにやりと笑った。(ふん。いい格好してさ。アル中)
久国も、にやりとした。「いやに、ナナちゃんにやさしいじゃないか」
(どうして、そういうことだけにぴんぴんくるんだよ。このエロ爺)

人の心が読めてしまうヒロイン
トルストイ「アンナ・カレーニナ」
「幸福な家庭はどれも似たようなものだが不幸な家庭はそれぞれ違う」
七瀬が行く先々で化学変化が起こってしまう
さすらいのサークルクラッシャーみたい 家庭クラッシャー
ミソジニー 女性嫌悪
エンターテイメントとしてのドライブ感が凄い
私たちがそうなんです
読書=窃視者(せっししゃ)の快感 女性が共感!ヒロイン七瀬
感情移入?しているのでは? 女性はスカットする 半沢直樹みたい
よその家庭を壊すことに罪悪感を持たない ピカレスク 悪のヒーロー
七瀬は弱者 女性 若い 被雇用者 が一矢を報いるという構造
少女漫画 

「七瀬ふたたび」(1975)
西尾が拳銃を出した。だがその拳銃は西尾の手から離れて宙をとんだ。
「殺して。早く」ヘンリーの意識を通じて、どうせ西尾の死にざまを
感じずにはいられないことを知りながら、七瀬は眼を強く閉じてそう叫んだ。
「返してやる」ヘンリーが言った。いったんカーペットの上に落ちた
拳銃が、ふたたび宙をとんで西尾の手の中に納まった。

サイキックSFバトル!「七瀬ふたたび」 冒険小説 スピーディー 友情
疑似家族 ジャンヌ・ダルク サイボーグ009 七人の侍 魔女狩り
サイキック「黒革の手帖」 異能バトル 七瀬は万能者ではない
全滅するのがお約束 不幸の積み増し 

「エディプスの恋人」(1977)
「彼」の心には選ばれたものとしての自覚があった。
「彼」が超能力者でないことは確かであった。
では「彼」のその選良意識の強固さは何によるものだろう。
恋愛感情を抱くようになる 宇宙意志が働いていた
七瀬恋に落ちる! 神(筒井作品のテーマが書かれる)
七瀬の自由意志がなくなる 恋に落ちる=自由意志が奪われる
他にないラスト 裏切られた感が否めない 
(トモフロガ)(タイケンスル)(ハジメテノ)(オンナノ)(ヤクワリヲ)(ワタシト)(カワッテクダサイ)
「彼女」の意図を一瞬にして悟り、悲鳴まじりに「いや」と叫ぼうとした時、
それはすでに起こっていた。
息子の初体験が欲しい!神の深き欲望
人形の家に人形として置かれた七瀬 最高の不幸が来た 
演劇 シェークスピア
「すべてこの世は1つの舞台 男も女も役者に過ぎない」「お気に召すまま」
「人生は哀れな役者だ 出番が終われば消えてしまう」「マクベス」
神が操る世界で生きる=人間の普遍的な条件

1968年筒井康隆 長男誕生
1970~71年「家族八景」連載

第2章 筒井文学の転換期

論者 菊池成孔
「エロチック街道」(1981)

「バブリング創世記」(1978)「ウィークエンド・シャッフル」(1974)
「ベトナム観光公社」(1967)短編集として個性が際立っている
「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」
名曲も入っているけど音響実験 前衛とポップが一緒に入っている

中隊長
自分はいつも馬に乗る時さかさにまたがってしまう。
鐙(あぶみ)にどちらの足を踏みかえればよいか直前のためらいがあり、
そのためらいのために尚さらわからなくなり結局は逆の足を踏みかけてしまう。
自分が他の中隊長ほどには武骨な言動もとらず粗野でもなく
顔立ちも端正なので比較的教養があり話のわかる
人間だと思われている傾向があるのではないだろうか。
自分は馬上で自慰をする。もし隣国と戦争になり、現代でも白兵戦というのは
充分あり得るわけで自分と彼がそのような場所で出会った時
おそらく自分は気合い負けをしてたちまち彼に斬り殺されてしまうか
射殺されるかするだろうという気がする。
彼が油断していた場合は別出であってその場合自分はためらいなく
彼を射殺できるだろうと思う。

遠い座敷
兵一の家は奥へ向かって廊下がどこまでも続き
その廊下に沿って両側に座敷がいくつもあり
山腹の斜面の勾配に応じて座敷と座視の間は
奥の座敷がそれぞれ五寸から一尺低くなっていて
次第に降下していくその座敷の連なりはどこまで
続いているかわからぬほどだったからである。
その座敷は茶室風の六畳で正面の床の間には
煤(すす)けた雪景山水の掛軸がかかり片側の地袋の上では
土人形の女達磨が笑っていた。左側にある床の間の
牡丹を描いた掛軸の下には木彫りの福禄寿が置かれていた。
うっすらとかかった白い埃や電灯の光の陰影によって
より怪奇に感じられる笑みをたたえたその福禄寿を見て
宗貞はこれらの座敷の連なりにも夜の山道のそれとはまた
種類の異なった恐ろしさがあちこちに散りばめられていることを悟った。
動き出さぬ筈の置物ではあったが夜のそれもほの暗い電灯の下に
置かれているが為にそれらは今にも声を出して笑うのではないかと
思えるほどの実在感を持っていたのだ。
不気味さに宗貞はその座敷の中央を駆け抜けた。

「夢の小説化」に取り組んだ作品群
読む人をフィルタリング 戦死の恐怖 獣欲的な性欲
ゾルゲル状 夢を見ている気分 
「着想の技術」(1983) 夢は素材になりやすい 
夢を素材化して加工して小説化する

シュルレアリスム 20世紀初頭フランスで生まれた芸術運動
夢や無意識の表現による人間精神の回復を目指した

言語で現実を幻想的なものに変える実験
編集者 塙(はにわ)嘉彦(1935~1980) 筒井康隆氏を変えた人
文芸雑誌「海」塙氏は三代目の編集長
1978年2月11日 塙氏が神戸の筒井宅を訪問 
この日から2年で亡くなっている 7月に「中隊長」を書いている
筒井康隆氏のグールー師 中年米の文学 「海」が紹介
ガブリエル・ガルシア=マルケス「百年の孤独」(1967)

マジックリアリズム 日常的なものと魔術的なものが融合した
中南米の小説や美術に見られる表現技法 代表的作家
ガルシア=マルケス バルガス・リョサ フリオ・コルタサルなど

天井桟敷をやっていた寺山修司 土俗性があって近代的意識も通過している
リアリズムを持っていながら魔法がかかっている 
「さらば箱舟」(1982)寺山修司がガルシア=マルケス「百年の孤独」を映画化した遺作
つげ義春「ねじ式」(1968)
中南米文学を塙さんから知ることで解放された?
グールーと高弟 

傾斜
夕食の最中、突然七歳の長男が、茶碗と箸を手にしたまま
「わー」と叫んで立ちあがり、次の間へ駈けこんでいく。
「なあに。あれ」と、長女が言いながら次の間を覗きこむ。
「奥の間まで走っていったみたいよ」
「行儀の悪い子だ」と、どてら姿の夫が言う。
突然、長女が茶碗と箸を持ったまま「わー」といって立ちあがり、
茶の間から走り出て次の間を駆け抜け、奥の間へ去ってしまう。
夫と妻はあきれて長女を見送る。
「まあ。なんてことでしょ。
年ごろの娘が、はしたない」しばらくして妻がそう言う。
言い終わるなり彼女も「わー」と言って立ちあがり、
茶碗と箸を手にしたまま次の間を走り抜けて奥の間へ駈けこむ。
「なあんだ。あいつらは」夫は憮然とする。
気をとりなおし、夕食を続けようとするが、
やがて茶碗と箸をそれぞれの手に持ったままで立ちあがる。
「わー」彼は走り出す。次の間を抜けて奥の間へ走りこむ。
八畳の奥の間はいちの間にかたいへん広くなっている。
八畳の中ほどから座敷全体が約四十五度の角度に下の方へ
向かって折れ曲がり、その急勾配には畳が敷きつめられたまま、
はるかなる地底、彼方の眼下に果てしなく続いていて、
行きどまりがどのあたりなのか眼で確かめることすらできない。
その畳敷きの傾斜を駈けおりて行く家族たちの姿が、
すでに豆粒のようになって小さく見えている。
夫も茶碗と箸を手に、「わー」と叫びながらその傾斜を駈け下って行く。

「下に降りていく」筒井作品
「驚愕の曠野(こうや)」 心の中(無意識)に降りていく
読み方によっては前半はコント 後半は映画

「エロチック街道」
お客さんはこの里は初めてでは。
ではどうして温泉にお乗りにならんのですか。
あれに乗ればバスでまわるよりもずっと早く根岸舞子に行けますし
ここに初めて来た人はたいていあれにお乗りなのです。名物ですもんね。
あらためて驚かされるほどに色が白い。初めてなんですか。うん。
じゃ、こちらへどうぞ。ご案内しますから。

夏目漱石「夢十夜」内田百閒(けん)「冥途(めいど)」
島尾敏雄「夢の中での日常」以来である。夢四天王に入った
つげ義春の感じが出ている 体内回帰 転換期
ザ・ビートルズは絶頂期にインド哲学に救いを求めている
筒井氏は文学の人に路線転換できた ビートルズはアイドルからアーティストへ
ル・クレジオ「巨人たち」
「虚人たち」(1981)登場人物が自分を小説内の虚構の存在だと知っている
「超虚構」実験小説 「海」だけにBL漫画化 
超虚構はボキャブラリーの1個に降格
「ロートレック荘事件」(1990)

第3章 戦争 歴史 純文学
論者 大森望
「虚構船団」(1984) 爆笑の純文学
毀誉褒貶が著しい作品 話題作

第一章 文房具
まずコンパスが登場する。彼は気がくるっていた。
針のつけ根がゆるんでいたので完全な円は描けなかったが
自分ではそれを完全な円だと信じこんでいた。

誰かれなしに喧嘩を吹っかけた。蒼ざめて怒りに身を震わせた末
その場で数回きりきり舞いをしてぶっ倒れ意識を失った。

文房具だけが乗っている宇宙船 小説だから可能
執拗さ 存在しないことを書き連ねられていることはつらかった
プルースト「失われた時を求めて」

ポール・ヴァレリー「プルーストの作品の興味は一つ一つの
断片の中に存する。その本のどこを開くも自由である。」
「頌(プルースト)」生島遼一訳

全部が筒井さんの分身❓
機能を果せない=異常
現代人のメタファー
現代の阿呆船 24億のイタチを全員殺せ

第二章 鼬(ゆう)族十種
グリソンたちは殺戮を好み空腹でなくても他の種族を殺した。
顔が黒く頭髪が白いので全員が白い帽子をかぶっているようにも見え、
「白冠(はっかん)の殺戮者」などとも呼ばれていた。

戦争 宗教対立 虐殺 絶対王政 市民革命 
クズレオン・ポナクズリ エコノスという島国

九二三年、ヘド幕府に傭(やと)われた殺戮集団マコトが尊王国粋党の
集(たか)るレストラン・イダヤケに斬りこんだことがあった。
志士七十八名が惨殺された。
イイヅナのヒドラはその時の生き残りである。彼の出生や前歴は
全く不明であるが一説には浮世絵師の見習いであったという。
国民の信頼は次第に、激烈な優生学的民族主義者のヒドラに集った。
ヒドラははじめて実際の戦況を報告した。五年も前から敗戦が決定的で
ありながらその事実を王にも国民にも隠していたヒドラに対し
アラマヒトは約二時間半にわたって大声で罵倒し、最後には
ヒドラの顔を押さえつけその鼻さきを自分の肛門に押し込んで
肛門腺分泌物を噴射した。
ヒドラは胸を掻きむしりながら弱よわしく「大君の屁にこそ死なめ」
と呟いて息絶えた。

イタチ族の歴史をどう読むか
異化作用

今、世界史を書いている。
歴史小説ではなく、歴史を書いているのである。
世界史のパロディーではなく、世界史なのである。
少なくとも書く方ではそのつもりで書いている。
さて、その三百枚のうちの二百枚を
書き上げた今、読み返してみると、
それはたまたま世界史を残虐性の側面から
眺めてというていのものになっている。
「プライベート世界史」より

「幻想の未来」(1968)
宗教対立と戦争と虐殺 人類史=戦争史 虐殺史 混血史

ノーマン・メイラー「裸者と死者」(1948)
太平洋戦争中 日本軍が支配する南太平洋の孤島に
上陸した米兵たちの姿を描いた群像劇
第一章 戦争に行く人の心の中
第二章 侵略される側の歴史
第三章 戦争そのもの
戦争のすべてを入れた

第二章 神話
「先生あの『カンチョレ族の繁栄』っていうの、学生アルバイトにでも
代筆させたんじゃないの」深夜スナックのマスター。
「面白くありませんでした。はい。面白くありませんでしたから」
『三月ウサギ』公演終了後のロビーにて学生風の二人づれ。
「あの『虚人たち』って言うの、酔っぱらって書かれたんですか」
バーにいた唐辛子のような赤い小さい娘。な・ぜ・だ。
傑作だと思っているものばかりではないか。
まあまあまあそういう連中っていうのはひと前で
作家に無礼なことを言ってそれをあとで自慢したいのですよ。
いやそればかりではあるまいね。あの前後もわきまえぬ
ある種の真剣さは彼らが本気で、心の底から
そう思いたがっていることを示していたのです。
この小説を読んで怒る人も、やっぱりいるのであろうなあ。いやだなあ。

突然登場!作者自身の意識
小説の中には何でも書ける 30:33
話芸の伝統 チョンガレ節 祭文語り 

ボブ・ホープ(1903~2003) 
アメリカの喜劇俳優 楽屋落ちギャグで人気を博した

分らなくても気にしなくていい
分らないのが気持ちいい
性暴力の描写 戦争の本質
ラストは読み飛ばさないで欲しい

「敵」(1998) 吉田大八映画監督の言葉
不条理な物語として楽しんだ
2020年 コロナの時 読み直したのがこの「敵」だった
30歳代で始めて読んだ時とは全く違ったものだった。
誰にもこの作品は渡したくないと思い映画化した。
「敵」監督 吉田大八 1月17日(金)より全国公開

老境を迎えた元大学教授の日常 そこにある日 不穏なメールが届く
「老い」を描く筒井文学

理性を保ったまま老いと向き合う 困難さえも楽しむ

お勧めしたい筒井作品は❓
「薬菜飯店」(1988) イチゴの日
「残像に口紅を」(0989)
「ダンシング・ヴァニティ」(2008)
「問題外科」(1979)「魚籃(ぎょらん)観音記」(2000)

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