2024年9月10日火曜日

偉人・敗北からの教訓 第57回 清少納言

(舟越桂氏)秋麗楠愛し掘りつづけ
名も知らぬ人に涙の秋の宵
地虫なく他人の傷みに気も留めず
人として智慧と慈悲持ち蚯蚓(みみず)鳴く
三福田(悲田・恩田・敬田)のための供養や野分(のわき)

■偉人・敗北からの教訓 第57回「清少納言・涙で綴った『枕草子』」
枕草子 身辺の雑感や随想を書き留めた随筆文学
唯一無二の随筆
清少納言の栄光と敗北
春はあけぼの やうやう白くなりゆく 山ごは すこしあかりて
966年頃誕生 父親は清原元輔
981年頃(16歳) 橘則光と結婚
一条天皇 藤原定子 宮廷サロンの中心人物へ
藤原道隆 急死 定子 出家 藤原道長
清少納言 再び宮廷に戻る 懸命に定子を支える
定子は子どもを出産後 急逝 1000年(35歳)
清少納言 宮廷を去ることに 清少納言の敗北 
なぜ清少納言は定子の死後も「枕草子」を書き続けたのか?
華やかな宮廷文化を作りあげた清少納言の敗北の瞬間

夜をこめて 鳥の空音は 謀るとも よに逢坂の 関は許さじ
小倉百人一首 清少納言の歌

随筆(エッセイ)に不可欠の要素 共感性 意外性
敗北の伏線~「枕草子」のウラ側~
をかし あはれ めでたし うつくし うれし 
自由奔放の精神 ゆえに批判したもの 「源氏物語」の作者 紫式部
「清少納言こそ得意顔をしたとんでもない人
風流を気どってぞっとするようなひどい時にも
『ああ』と感動し『素敵』とときめくことを見逃さないので
現実からかけ離れた『空言』になってしまう」「紫式部日記」より
空言(そらごと)と辛辣な批判

山本淳子女史 曰く
(定子と清少納言は)客観的には悲惨としか言えない状況にあった
現実を書き変えている部分もあり
現実に対する理解が(一般と)違うところもあった

「枕草子」の裏にあった悲惨な現実とは?
漢文の知識を持つ才女 清少納言
推定28歳で女房に出仕 
離婚して身軽になっていたので新しい世界に挑戦

岡本和彦氏 曰く
当時は「内裏(だいり)」という天皇の住まいがあった
定子は「登華殿」にお住まいになっていた
中心は「母屋」という主人になる方は母屋にお住まいで
その周りの「廂(ひさし)の間には女房たちが待る
中宮・定子の女房は30~40人 下級の女房:身の回りの世話
中級の女房:中宮の周りの控える 上級の女房:中宮と会話できる
清少納言はすぐに定子に話しかけられる
清少納言「私は恥ずかしさで一杯 涙が出そうだった」
「枕草子」より意訳
定子は新しい文化を作り出そうとしていた 
定子「少納言『香炉峰の雪』はどうなっているのかしら?」
清少納言は漢詩の一説だと気づく
香炉峰の雪は簾(すだれ)をかかげて見る 
清少納言「この通りでございます」
定子「その通りね」
「枕草子」より意訳
漢詩が描く情景をその場で示す

内裏に仕える貴族 殿上人 文化サロン

繁田信一
教養たっぷりな遊びとはまず歌のやりとり
清少納言のすごいところは漢文に関する知識を求める問いかけに対して
そのまま返さないで和歌で返すようなちょっとひねったことをして返す
そこが機転が利いているので男性陣が喜ぶ
定子さんも誇らしいことだし一条天皇にとっても誇らしい
「私の後宮には優れた文化サロンがあり」ということになる
機知とユーモアは清少納言にとっては天職だった

定子の父 関白・藤原道隆 43歳で急死
定子の弟 隆家と兄 伊周が花山法皇に矢を放った
二人は暗殺未遂で配流 いわゆる 長徳の政変
後ろ盾を全て失った清少納言は衝動的に出家
定子は中宮のまま内裏を出る 最愛の職場宮中を去る

服藤早苗
自分が(髪を)切っただけでお坊さんが来ていたわけでもない
本人も女房たちも出家したとか思っていなかったのではないか
道長や周りの取り巻きたちがうまく利用した

定子の叔父 藤原道長 朝廷第一の座に就く
権力を確かなものにする 清少納言を引き抜き
若手の上級貴族 藤原斉信との恋の駆け引き
「長徳の政変」というのは斉信の姉妹の家を舞台に行われた
藤原道長に事件を通報したのはこの斉信と思われる
清少納言は斉信との関係から「道長側に通じている」という
疑惑を同僚から持たれたと思われる
同僚に疑われた清少納言は里に引きこもる
定子を没落させた大事件
枕草子には「暗いできごと」は描かれていない
事実としては悲劇的であった定子の記憶を塗り替えて
「枕草子」には「素敵」とか「あはれ」とか
そのようにしか書かれていない
(紫式部は)「これは嘘だ」と決めつけている

定子の元に戻るのを拒み続けた そんな時定子から贈り物が届きます
何も書かれていない真っ白な紙でした 定子に語ったこと
清少納言「私は嫌なことがあって死にたくなったときにも
真っ白な紙とよい筆さえあればまだこの世は捨てられないなと
命が惜しくなってくるんです
「枕草子」より意訳
見たこと感じたこと 定子たちとの日々 幸せに満ちた出来事
清少納言「これを中宮様がご覧になれば 嫌なことを忘れて
自信を取り戻していただける そしてこれが世に広まれば
地に落ちた評判も元通りになるかもしれない
「枕草子」より意訳
こうしてできたのが随筆文学の金字塔「枕草子」

女房には訪れた人と応対する役割があった
問題は女性同士の嫉妬心
清少納言は他の女房から嫉妬の対象となった

▪背少納言敗北の瞬間
上司に心酔していた
仲間の嫉妬を受けるほどの才能を持っていた
~定子の死までのカウントダウン~
「枕草子」初稿 定子も「枕草子」を読んだ
定子からの手紙
「言わで思うぞ この『クチナシ色』の花のように
何も言わないあなたこそいちばん思いが深いと
私にはわかっています」「枕草子」より意訳

斬新なやり方こそ自分たちの文化
定子の元に戻る
貴族たちの娘が入内 藤原道長の娘 彰子
定子の出る幕はなかった 
しかし一条天皇は定子を諦められなかった
定子たちを「職御曹司(しきのみぞうし)」に迎える
役所をにぎやかな場所に変える
文化サロンは以前を上まわる大人気
幸せな出来事 定子を内裏に招きともに過ごす

山本淳子 曰く
一条天皇は男子「皇子」が生まれるようにと
賭けに出て定子を呼び寄せた
道長は定子を追い落とす企み
12歳の娘・彰子の成人式
強力なライバルの登場

定子の死まで1年5カ月
定子懐妊 出産のために側近の家に移る

繁田信一 曰く
これは相当淋しいこと 普通は誰か上級貴族の家を貸せばいい
叔父の道長が「じゃあうちで」と言えばいいのに
彼は「誰にも家を貸させない」くらいの裏工作をしていた

引っ越しの担当者が来ていなかった 道長の嫌がらせ
側近の家の貪弱さ 門が狭くて牛車が入らない 屈辱的な状況
清少納言はこの屈辱を笑い話に変えました

清少納言「ああ!腹が立つ!牛車で入れると思って
髪がぼさぼさなのに!殿上人や役人たちが
じろじろ見ているのもいまいましい!」
「枕草子」より意訳

山本淳子 曰く
自分をピエロに仕立ててそれで道化て一つのエピソードのしている
とてもつらい状況を笑いに紛らわす天才だった

定子の死まで1年2カ月
第一皇子 敦康(あつやす)親王 誕生
同じ日に彰子を后候補・女御にさせる
彰子の脅威 

定子の死まで10カ月
定子と子どもたちを呼び寄せる
しかし残っている墨絵には子どもたちの姿は描かれていない

山本淳子 曰く
特に親王は「一条天皇の後継者」であることを主張する形となる
道長に対して「反抗的な書物」と見なされる危惧があった
だから殊更に書かなかったのではないか

「枕草子」は政治に一切触れていない 実際には政治に大きな力
13歳の彰子に中宮の称号が授けられる 定子は皇后と呼ばれる
后の頂点に二人が並びたつ 定子が再び一条天皇の子を懐妊
藤原道長と一条天皇との権力争い 定子の苦しみ

定子の死まで7カ月
山本淳子 曰く
定子が「枕草子」に登場する「最終場面」
最後まで正式な妃として朝廷から認められていたのだ
定子という人の重みをきちんと主張するということではなかったか

定子が登場する最後の場面
進物の珍しい菓子を定子に差し上げる

その懐紙に書いた和歌
みな人の花や蝶やといそぐ日もわが心をば君ぞ知りける
「枕草子」より
苦しみをわかってくれるのは清少納言しかいない
「枕草子」では定子の苦しみに触れていない
いとめでたし

定子の死 当日
皇后定子 崩御(25歳)
「枕草子」は定子の最後の姿を伝えていない

服藤早苗 曰く
ものすごくショックだったと思う
ちょっと髪を切っただけなのに出家したと騒ぎ立てて追い落とそうとする
まさに政治 政治をよく分かった上で逆にそこを一切書かない
主の定子もそういうものをなるべく見せない
両方が支え合っている 
その中であの「枕草子」の素晴らしい随筆ができてきた
権力争いへの敗北
機知と笑いに満ちた文化は人々の心を捉えていく

公家たちの目標
自分の娘を入内させ天皇の外祖父になること

伊東潤の見解ポイント
定子の出家は最大のミスだった
出家が認定されると定子は后の地位を失う
中宮は「天皇家の祭祀」を司る立場がある
中宮の宗教は「神道」になる
尼さん(仏教)では「天皇家の祭祀」ができない
定子は中宮の座に留まっていればよかった
「出家した」となると道長の付け入る隙ができる
清少納言のねらい
定子のサロンの華麗な様を書き残していきたい

清少納言 敗北の瞬間
機知とユーモアで政治の力に抗った
後の世までその真価が伝わった

敗北がもたらしたもの~清少納言のインパクト~
定子の死後 女房の職から離れる
定子の死に打ちひしがれていた清少納言に力を与えてくれるもの
それは真っ白な紙と良い筆
清少納言は京に帰り「枕草子」の執筆を再開
「枕草子」はブログのように折々書かれ都で広く読まれた
藤原道長も読んだ 随筆のジャンルを切り開きました
兼好法師 鴨長明らに影響を与えていかました

少納言は男を男とも思わず
「日本文学史」(明治23年)より

服藤早苗 家悪
男性優位社会になってくると 活躍した女性たちには
おとしめる説話が一杯できてくる 男女対等だった歴史が
次第に女性が排除される 最後の輝きが平安中期だった

進んだ女性 平安時代の女性文化の力

山本淳子 曰く
政治世界ではないもう一つの力の世界 
それは自分たちの持っている文化だと「枕草子」は主張している
武力だけ暴力だけではない力が存在するのだということは
「枕草子」や「源氏物語」がしっかり1000年前に示してくれていた

面白くておかしい文化的なできごととして書き記された「枕草子」

道長は「枕草子」を「禁書」にしなかった
道長は定子の怨霊を恐れていた
怨霊による「病魔」として襲いかかることを恐れた
定子を鎮魂したい気持ちは清少納言と一緒だった
晩年の道長は様々な病気に悩まされた
定子のサロンがどこよりも雅で楽しかったと後世に伝えていきたい

敦康親王(999~1019)一条天皇の第一皇子母は皇后・藤原定子

伊東潤が描く アナザーストーリー
清少納言はシンガーソングライターに向いていた
You-Tubeでインフルエンサーになっていた
「枕草子」は「共感性」と「意外性」をうまく使っている

教訓
精神的に不安定な人には常に寄り添う
定子の悩みを聞いてあげられない時期だった
精神的に不安手になっている人には
常にその人の気持ちになって寄り添うことが大切

清少納言の敗北から学ぶ教訓
精神的に不安定な者には常に寄り添うよう心かがけるべし

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