2024年9月29日日曜日

100分de名著 ウェイリー版❝源氏物語❞(4)世界文学としての「源氏物語」

薄紅葉有限の美を日々求め
無限に広ぐ幾何学模様空高し
星月夜点と線へと落とし込む
暗闇に探す光や月の雲
花野径平和を作る才知あり

■100分de名著 
ウェイリー版❝源氏物語❞(4)世界文学としての「源氏物語」
安田登 伊集院光 安部みちこ 翻訳者 毬矢まりえ(俳人) 森山恵

原文にはない「エンペラー」という言葉に驚いた
更衣=帝の衣装(ワードローブ)の世話をする女性
女御=帝の寝所(ベッドチェンバー)の世話をする女性

いつの時代のことでしたか、あるエンペラーの宮廷での物語でございます。
ワードローブ(更衣)のレディ、ベッドチェンバー(女御)のレディなど、
後宮にはそれはそれは数多くの女性が仕えておりました。

翻訳中に有名なシェイクスピアの言葉が潜ませてあった
光源氏と頭中将が詠み交わす和歌(「賢木」帖)
(頭中将の歌)
それもがとけさひらけたる初花に 
おとらぬ君がにほひをぞ見る
(光源氏の返歌)
時ならでけさ咲く花は夏の雨にしをれにけらし 
にほふほどなくおとろへにたるものを。
(シェイクスピア ソネット18番 人生は儚いよね 重ねられていた)
若さのはかなさを嘆く「源氏」の和歌のテーマと
シェイクスピアのソネットとテーマが合っている

ふつう洪水はflood ここではdeluge を使っている
theDeluge 「ノアの洪水」(旧約聖書)を意味する

輝くブルーウェイブス
紅葉賀
十月には紅葉(レッドリーヴス)の賀(フェスティヴァル)のために、
エンペラーも朱雀院(スザクイン)へお出ましのご予定でした。
踊り手はみな、高貴な家柄の子息という決まりです。
皇子や大臣以下、誰もが熱心に稽古やリハーサルに励んでいます。
プリンス・ゲンジはトウノチュウジョウ(頭中将)をパートナーに
青海波(ブルーウェイブス)を舞います。
チュウジョも、その辺りの踊り手に比べれば、飛び抜けて美しく、
踊りも巧みですが、ゲンジと並ぶと、花盛りの桜の
脇に立つ、山樅(もみ)のようです。
沈みゆく金色の夕日がゲンジに降り注ぎ、
ふと楽の音が高まる、その妙なる瞬間。
ゲンジの雅な足の運び、たおやかに傾けた首。
これほど眩いものを見たことがあるでしょうか。
頬を生き生きと紅潮させ一心に舞う姿は、
まさにゲンジ、ザ、シャイニング・ワン。
紅葉する大樹のもと、四十人のフルート吹きが輪をつくりました。
彼らの笛の音に、山から吹き下ろす
荒れ狂う松籟(しょうらい)のハーモニーが加わります。
紅葉渦巻き、舞い散る中、
光り輝く華麗さで躍り出たゲンジの〈青海波〉の舞。
―観る者は、畏れにも似た歓喜を味わったのでした。
「源氏物語A・ウェイリー版」毬矢まりえ 森山恵 訳

舞楽「青海波」=ブルーウェイブス

スエツムハナ
ああ、それにしても、なんという馬鹿げた間違いを犯したのだろう。
この姫君がとにかく背丈がとても高いのは座高でわかります。
これほど胴長の女性がこの世にいるとは。
やにわに、最大の欠点に目が引きつけられました。
鼻です。鼻から目が離せません。
まさにサマンタバドラ(普賢菩薩)さまの白象の鼻!
驚くほど長く目立つうえに、(なんとも不思議なことに)
少し下向き加減に垂れたその鼻先はピンク色で、雪の白さも
霞むほどの色白な肌と、奇妙なコントラストを成しています。
たいそう痩せて骨ばり、とりわけ肩の骨が
痛ましくドレスの下で突き出ています。
こんな惨めな姿を晒させてしまったとは。申し訳ない気もしますが、
あまりに奇っ怪な姿に、どうにも目が釘付けになってしまいます。

ホントに不美人?スエツムハナ
スエツムハナは外国にルーツがあるのではないか❓
黒貂(てん)(セーブル)のマント 
渤海国(ぼっかいこく)から日本に入ってきていた

「今昔物語」重明親王の息子の描写がスエツムハナにそっくり

ゲンジが語る「物語論」

「私はこの芸術(アート)を見直しているのですよ。
実際的価値もはかりしれない。もし物語がなければ、
古代の神々の時代から現代に至るまで、
人びとがいかに生きたか、どうやって知ることができるでしょうね。
〈日本書紀〉(クロニクルズ・オブ・ジャパン)などの歴史書は、
人生のほんの一面しか見せてくれません。
その一方で、あなたのまわりに積んであるその日記(ダイアリー)や
物語(ロマンス)の類は幅広いひとのプライヴェートな出来事を
細々と伝えていますね…」
ゲンジは微笑み、さらに続けます。「けれどもわたしは
この小説(ノベル)という文芸(アート)とは何か、いかに
誕生したかについては独自の理論思っているのですよ。
まず小説とは単に作家(オーサー)が、
誰かの冒険譚(たん)を語るだけではないのです。
そうではなく良いことにせよ悪いことにせよ、
その作家自身が経験した出来事や出会った人物
―自ら直接体験したことのみならず、
目撃したとか、ひとから聞いた話とかでもー
に烈(はげ)しく感情を動かされ、自分ひとりの胸には仕舞って
おけなくなって、小説が生まれるのです。
自分の人生だったり、まわりの出来事だったりが、
とても重要なものとの思いが拭えず、
忘却の彼方に葬り去られるのがたえがたくなる。
そのことを誰も知らない時代が来てはならないと思う。
こうして小説という芸術が誕生した、私はそう思っているのです。
であれば当然、物語作家(ストーリーテラー)は、
良きもの美しきものを描いていれば
それで責任を果たというわけではないのです。
まわりで起こるさまざまな悪徳や愚行にショックを受けることも
まあまああるはずで美談とまったく同じ、
それにも激しく心が揺さぶられるのです。
なんと大切なことか、書きと4めておかねば、とね。(略)
「蛍」帖より

時空を超えた訳語
小説(ノヴェル)の語源=新しい
「ドン・キホーテ」セルバンテス著 1605年1615年が小説のはじまり

20世紀が来て新しい作品を作ろうと思っていたら
すでに「源氏物語」に書かれていた
しかも女性が書いていた日本で

     日本       イギリス
   現代日本語     
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1000年前紫式部(原文)⇨100年前ウェイリー(英語)

らせん訳 
ドイツの哲学者ヘーゲル「物事はらせん的に展開していく」

らくご「死神」は元々はドイツ民話からきている
グリム兄弟が20年前に童話集に採集した
150年前に三遊亭圓朝が落語「死神」に仕立てた
今の噺家さんがもう一度新しいものにしている
色々な文化や歴史を巻き込みながら
時空を超えて戻ってきた「らせん」的発展

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