2024年2月29日木曜日

100分de名著 ローティ❝偶然性アイロニー連帯❞4我々を拡張せよ

美郷より漂ふ梅の甘き香
ベクトルは内なるエネルギー春意
たえがたき孤独はチャンス春の星
内面的孤独と向き合う日永
春の陽や背中ぽかぽかいびき立て

■100分de名著 ローティ❝偶然性アイロニー連帯❞4我々を拡張せよ
リチャード・ローティ 朱喜哲(ちゅ・ひちょる)

どうしたら私たちは連帯が可能なのか
どうしたら残酷さを減らすことができるか
テーマ
「異なった人たちと、どうやって共存し、会話を続けていくことができるか❓」

苦痛は非言語的である。(中略)
残酷な行為の犠牲者、苦しみを受けている人びとには、
言語によって語りうるものはほとんどない。
だから「被抑圧者の声」なるものや
「犠牲者の言語」なるものは存在しない。
犠牲者がかつて使用した言語はもたやはたらいていないし、
新たに言葉で語るには、犠牲者は
あまりにも大きな苦しみをこうむっている。
そうであれば、彼らの状況を言語に表現する作業が
誰か他の者によって彼らのために
なしとげられなくてはならないだろう。
リベラルな小説家、詩人、ジャーナリストは
そのような作業にたけている。
リベラルな理想家は通例、そうではない。
斎藤純一・山岡龍一・大川正彦 訳

ローティはそれを「感情教育」と呼んだ。
「人間は他の動物より(知性や尊厳を持つというのではなく)
 はるかによく感情を理解しあうことができる。」
というべきです。(中略)
そうすれば、自分たちの持てる力を感情のコントロールに
つまり感情教育に注ぐことができるからです。(中略)
この感情教育の目標は、「私たちの同類」とか
「私たちのような人たち」という言葉の
支持対象を広げることにあります。
「人権について オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ」より

文学による「感情教育」
小説など誰かを再記述する営み自体が
公共的な目標のためにはより役に立つ
文学が社会や世界を動かした事例
(「アンクル・トムの小屋」1852年ハリエット・ビーチャー・ストウ作)
感情を動かしたり他人の苦痛や残酷さに対してのシンパシーが何よりも大事
感情がついてこなければそもそも理論が機能しない

「われわれ」を拡張せよ!
他者の残酷さに対しての感覚を高めていく
「やつらと名指しされた人たちが私たちかもしれない」と
自分たちのように感じられる
理論的な分析は現状の構造を分析するのである意味では凄く残酷

自分の内側にある残酷さ
「ロリータ」(1955年)ウラジーミル・ナバコフ作
主人公の一人称によって語られていく
カスビームでは、ひどく年配の床屋が
ひどくへたくそな散髪をしてくれた。
この床屋は野球選手の息子がどうのこうのとわめきちらし、
破裂音を口にするたびに私の首筋に唾を飛ばし、
ときおり私の掛布で眼鏡を拭いたり、震える手で鋏を動かす
作業を中断して、変色した新聞の切り抜きを取り出したりして、
こちらもまったく話を聞き流していたので、
古くさい灰色のローションの壜(びん)が並んでいる中に
立てかけてある写真を床屋が指さしたとき、
その口ひげを生やした若い野球選手の息子が実はもう死んでから
三十年になるのを知って愕然としたのであった。
私は熱くて味気のないコーヒーを一杯のみ、うちのお猿さんに
バナナを買い、食料品店でもう十分ほど過ごした。
「ロリータ」床屋のシーンより 若鳥正 訳

落差

人は無関心なものに対してこれほど冷淡になれてしまう
読者も読み飛ばしていたことで
「自分のハンバードのように思っていたかもしれない」と気付く

読者は、突然、自分が偽善的でないとしても、
残酷なまでに無関心であることを明らかにされる。
自分の同類を、自分の兄弟をハンバート(中略)の内に認める。
(中略)しかし、ここでの道徳的なものとは、
少女に手を出すな、ということではなく、
自分が行っていることに気を留め、とりわけ人々が
言っていることに気を留めよ、ということである。
斎藤純一・山岡龍一・大川正彦 訳

正しくなさがあるから人はそこに気付けたり
そういう正しくなさの力という意味合いを文学に託している
文学が「わたしたち」の幅を広げていく鍵になる
われわれの拡張こそ現代に生きる私たちにヒントを与えてくれる

AchievingOurCountry われわれの国を成しとげる

われわれの中に自分たちは含まれていない

その時点において何かが決壊する。(中略)
一連の制度が破綻したと判断し、投票すべき
「強い男」を探し始めることを決断するだろう。
「AchievingOurCountry」より

私たちの連帯の感覚が最も強くなるのは連帯がその人たちに向けて
表明される人びとが「われわれの一員」と考えられるときである。(中略)
その連帯は、あらゆる人間存在のうちにある自己の核心、
人間の本質を承認することではない。
むしろ連帯とは、伝統的な差異(種族、宗教、人種、習慣、その他の違い)を、
苦痛や辱めという点での類似性と比較するならば
さほど重要ではないとしだいに考えていく能力、
私たちとはかなり違った人びとを「われわれ」の範囲の
なかに包含されるものと考えてゆく能力である。
斎藤純一・山岡龍一・大川正彦 訳

トランプ現象を予言したローティ

会話をどうしたら続けられるかという時に相手を黙らせたり
やりこめるための言葉づかいが一番問題
「お前たちわからないだろう」というのは
ある意味では会話を止めること「ずっと話し合って行け」
私たちはもっと感情的な紐帯(ちゅたい)からスタートできないのか
それこそが連帯のよすがになるのではないか
キエフではなく「キーウ」と言うことは
私たちがウクライナの人たちに連帯をするという表明でもある
「あなたたちが大事に使っている言葉を『私たち』も使いますよ」
キーウという言葉を大事にしている人たちも
「われわれ」の一員として考えることができる
まず犠牲者の側のほうにどれだけ感情移入をして
そこに対していま起きている残酷さを少しでも取り去ろうと思えるか
というのが連帯の優先順位

100%の言葉はない
臨機応変にやりながらなるべく苦しい局面を少なくしていく

バランスをとり続けるしかない
絶対主義 客観主義⇔相対主義
反逆者と言われたローティですが哲学感を変えていっている

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