2024年2月8日木曜日

夭折の天才詩人立原道造「ヒアシンスハウス」

蠟梅の香に誘われて阿波史跡(公園)
蠟梅の香りほのかな阿波史跡(公園)
SORA-Qの月面探査息白し
彫漆の断層にある冬の波
冬の彫漆空気に触れて鮮明に

■新美の巨人たち
【夭折の天才詩人立原道造「ヒアシンスハウス」×内田有紀】
わずか五坪ほどの土地にみた家の夢
いくつものスケッチを残しました
溢れるような湧き上がるような思いをのせて
その人の名は立原道造
彗星の如く現れた天才詩人であり
東京帝国大学卒の若き建築家
恋をしていました 結核を患っていました
24歳で風が持ち去るように亡くなりました
五坪の家を果たせぬまま

僕は、窓がひとつ欲しい
あまり大きくてはいけない
そして外に鎧戸、内にレースのカーテンを
持ってゐなくてはいけない
ガラスは美し磨きで外の景色が
すこしでも歪んではいけない
随想「鉛筆・ネクタイ・窓」

埼玉浦和 別所沼公園

しずかな歌よゆるやかに
おまえはどこから来て
どこへ私を過ぎて消えていく?
それをどうしておまえのうつに
私はかへさう夜ふかく
明るい闇の満ちる時に?

立原道造詩集
1967年初版以来 永遠のロングセラー
短い人生の履歴書です

1914年 東京日本橋の生まれ
中学では芥川龍之介以来の秀才の誉れ高く
1934年 東京帝国大学 工学部 建築学科 入学
同じ学部の一級下には丹下健三
大学時代「辰野賞」3年連続受賞
卒業後 石本建築事務所 入社
恋に落ちました 事務を担当していた 水戸部アサイさん
詩集も出版しました 詩集「萱草に寄す」「暁と夕の詩」
洋々たる未来のはずが結核に…。
心も体も蝕まれていく中で夢見たものは五坪の家でした
ヒアシンスハウスを建てたいと…。

夢みたものはひとつの幸福
ねがつたものはひとつの愛
山なみのあちらにもしづかな村がある
明るい日曜日の青い空がある
日傘をさした田舎の娘らが
着かざって唄をうたつてゐる
大きなまるい輪をかいて
田舎の娘らが踊ををどつてゐる
告げてうたってゐるのは
青い翼の一羽の小鳥
低い枝でうたつてゐる
夢みたものはひとつの愛
ねがつたものはひとつの幸福
それはすべてここにあると
「優しき歌」より〈夢みたものは…〉
1939年第1回 中原中也賞 受賞

其の翌月 立原道造 永眠 享年24

別所沼のほとりで5坪の夢の継承

浦和には多くの知人がいました
詩人 神保光太郎 画家 須田剋太
小説家の卵と友好を深めていく中で
ある構想がもたげてきた
浦和に芸術家たちのコロニーを作りたい

僕は室内にゐて、栗の木でつくつた
凭れの高い椅子に坐つてうつらうつらと眠つてゐる
夕ぐれがくるまで、夜がくるまで、
一日、何もしないで僕は、窓が欲しい たつたひとつ
随想「鉛筆・ネクタイ・窓」

白い三角の旗があがった時は自由に見学ができます。
Infoemation 見学開室日 水・土・日・祝日 10時-15時
ボランティアガイドがいます。

そこには詩人の心が暮らしていますから…。
片流れの屋根が優しい
おおらかな窓がそこに
夢みたものはたった五坪のユートピア

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