2024年2月12日月曜日

兼題「針供養」&ザ・プロファイラー バッハ “音楽の父”の壮絶人生

(山本七平)雪兎感情移入の絶対化
冬の夕焼命題の絶対化
空気的判断あらん四温晴
村社会という構造鎌鼬
思考なき状況倫理冴える星

■NHK俳句 兼題「針供養」
選者 山田佳乃 ゲスト 小島慶子 
レギュラー 家藤正人 中西アルノ 司会 柴田英嗣
年間テーマは「俳句とエコロジー」

長年使用してきたものには魂が宿ると言われている
感謝を表すためにいろんなものを供養する

▪名句de穴埋めクイズ
古妻(ふるづま)や針の供養の沢山   飯田蛇笏

▪特選六句発表 兼題「針供養」
空襲で移りし御堂針供養   西川由野(よしの)
着流しの男ぶりなり針供養   南タミ子
裁縫の授業繰り上げ針供養   中尾文貞
がやがやと来て神妙に針供養   布野寿(ぬののひさし)
私 針納(おさめ)紀淡海峡波高し   春名勲
病室に置けぬ針ばこ針供養   馬場崎智美

▪特選三句発表 兼題「針供養」
三席 針供養女ひとりの老いゆきぬ   山本美奈友(みなとも)
二席 まち針の影のはなびら針供養   北清水麻衣子
一席 私 空を縫ふ雨音ゆかし針供養   井上勝博
(「ゆかし」とは心が惹かれるという古語)

▪夏井家伝授!家藤正人と中西アルノ
0から俳句
俳都・松山を吟行しよう!

明教館POINT
1828年松山藩の藩校として設立 
その後旧制松山中学校となる
正岡子規、高浜虚子、川東碧梧桐も学ぶ
夏目漱石は明治28年旧制松山中学校の英語教師として教えた
旧制松山中学校での体験が小説「坊っちゃん」の題材となった

愛媛県立松山東高等学校 文芸俳句部
文芸俳句部と俳句を詠み合う
「松山」をテーマに一句!
くわいをる坊ちゃん団子冬木立   部長 篠原康太

▪小島さんの一句
針供養数え四十の乙女らの   小島慶子
添削
針供養数え四十の乙女たち

▪柴田の歩み
俺はまだまだだなぁ~

■ザ・プロファイラー バッハ❝音楽の父❞の壮絶人生
 
ヨハン・セバスチャン・バッハ
私と同じくらい努力をすれば誰でも私と同じようになれる…。

私の心はこの和声の父(バッハ)の
高く偉大な芸術にすっかり傾倒しております
(ベートーベンが書いた 友人への手紙)

私が常に目指していたのは
神の栄光のためによく整った教会音楽を演奏することです
しかしここでは誰かの反対なしに
それを実行することができず
事態が好転するきざしさえ見えません

私と同じくらい努力をすれば
誰でも私と同じようになれるでしょう
(19世紀のバッハの評伝より)

ケーテンには音楽を愛し
音楽を理解してくれる領主がおり
その方のもとで私は生涯を過ごすつもりでした
(友人への手紙)

最初は宮廷学長にまでなった私が
単なるカントールになることに気が進まず
3か月も決心がつかなかった
しかしこの地位は条件が大変よいと聞き
また息子たちが大学教育を望んでいたため
神の御名によって心を決めて
ライプチヒで試験を受けて転任しました
(友人への手紙)

① 宮廷学長
② カントール(教会の音楽指導者)
③ 宮廷楽師長
④ 宮廷オルガニスト
⑤ 教会オルガニスト
⑥ 宮廷楽師
⑦ 町楽師⇦父

1730年(45歳)市参事会に上申書を提出
能力が乏しい そして音楽の才能が
全くない生徒の入学を許可したため
音楽の質が必然的に低下し衰退をきたした
現在使用に耐える者17人
いまだ使用に耐えざる者20人
そして絶望的なものが17人いる

当局者の態度は不可解で
しかも音楽を大切にしない
不愉快さと妬みと迫害の中で
生活しなければならないのです

作曲家としての評価は高くない

1737年(52歳)音楽雑誌で批判される
バッハは複雑すぎて時代遅れ
仰々しく混乱した音楽が作品から自然な感じを奪い
過度な技巧を凝らして
音楽の美しさを曇らせている
(雑誌「批判的音楽家」)

1750年7月28日
ヨハン・セバスティアン・バッハ永眠(65歳)

バッハの曲はほとんど忘れられた
約80年後メンデルスゾーンが「マタイ受難曲」を再演。
これが大成功をおさめて世界各地で再評価された。
近代音楽の礎を築いたバッハはこう呼ばれた
「音楽の父」と…。

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