2024年2月22日木曜日

100分de名著 ローティ❝偶然性アイロニー連帯❞2「公私混同」はなぜ悪い?

自然を愛し恵みに感謝日永
春の潮長き暮らしをふり返る
風光るゴールではない音楽と
感じるものを言の葉とせり春の色
終わりなき欲望抑え春時雨

■100分de名著 ローティ❝偶然性アイロニー連帯❞2「公私混同」はなぜ悪い?
哲学者 朱喜哲(ちゅ ひちょる)

第一部 偶然性 第二部 アイロニズムと理論 第三部 残酷さと連帯
テーマ
異なった人たちと、どうやって共存し、会話を続けていくことができるか❓

人間や社会は具体的な姿形をとったボキャブラリーである

言葉づかいを身につけるということが1つの人格を作る

人間はだれしも、自らの行為、信念、生活を
正当化するために使用する一連の言葉をたずさえている。(中略)
このような言葉を、その人の終極の語彙(ファイナル・ボキャブラリー)」
と呼んでおくことにしよう。

譲れないプライド=ファイナル・ボキャブラリー
自らの行為・信念・生活を正当化するために最終的に使用する言葉

自分のファイナル・ボキャブラリーを
(他者)に開いて歩み寄ることができるか

自分はこういう信念を持っていた
でもいろいろな育ちの人もいて俺の言うことを
理解できないのも当然だ
確かに彼の考えにも一理ある

ファイナル・ボキャブラリーが登場する場面には
会話が打ち切られることがある
自分がこだわっていることだが影響を受けてみたり
それを否定せずに済むようなことができる

個人・公共的な社会 両方考えることができるようになる
一見矛盾するがどうしたら同居できるか❓

なぜ正しいことが個人の利害に合致するのか❓
公共的な正義を追求することと
私的な関心を追求すること
この2つはどうしたら統一できるのだろうか❓

公共的なものと私的なものとを
統一する理論への要求を棄(す)て去り、
自己創造の要求と人間の連帯の要求とを、
互いに同等ではあるが永遠に共約不可能なものと
みなすことに満足すれば、いったいどういうことになるのかを
明らかにすることが、本書の試みである。

公と私 建前と本音
「バザールとクラブ」
公共的な空間としてのバザール⇨市場
私的な空間としてのクラブ⇨いつもの店

親密な場所だからこそお互いのファイナル・ボキャブラリーを
さらけ出して本音でしゃべれるかもしれない
本音でしゃべって自分を変更に開ける
自己創造の可能性がある場所でもある
両方に価値がある
混ぜるな危険がローティのポイントかもしれない

「それはどういう場所なんだろうか❓」
私的空間と公共空間の場所を考えるのが大事

問題は本音ではない
オフィシャルな場所で言ったことが問題
「心の底から考え方を変えさせねばならない」
と批判をすること自体が窮屈さを生む

建て前(公共的なボキャブラリー)
本音(私的なボキャブラリー)
どちらが正しくてどちらが嘘というわけではない
1人の人間の中に共存していてもよい

十二歳にしてわたしは、人として重要なことは、
社会的不正義との闘いに人生を捧げることなのだと悟った。
「トロツキーと野生の蘭」より

本質が1つならばどちらかが正しくて
どちらかが間違っているということになるが
別々のままでいいのではないか❓
どうやって社会や個人の中で同居し得えるのかを
考えるべきだと変わった

リベラル・アイロニスト
公共的にはリベラルであるべき
リベラル⇨私たちの社会の「残酷さ」を減らしていくことが
     最も重要だと考える人
力づくでいうことを聞かせたり
考え方を変えさせるのは自由ではない
その状態のことを「残酷さ」と呼ぶ
アイロニスト⇨自己の偶然性を認識し、
       自分が正しいと信じていることも、
       いつか改訂されうると考える人
これこそが理想的な人間社会図

私的な趣味の追及や相手が大事にしていることは
一歩一線を引きながらも
残酷な状況に対しては一緒に手を携えて
介入をして残酷な状況を解消しようとする
これが「リベラル・アイロニスト」に託された構想

ドメスティック・バイオレンス(DV)
私的な空間とされた家庭内の暴力でも
社会が介入するんだというように
我々の社会が公共性と私性の境目を変えている

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