春の興品性持ちて沈黙す
荘川桜ダムを見つめん三十郎
花時を高知に咲く三十郎
獅子頭見事な花弁神宮寺
神宮寺香り高き黄冠咲く
■闘うガンディー・非暴力思想を支えた「聖典」①
小野正嗣 赤松明彦
私の大願は独立よりも、遥かに高い所にあります。
もしインドが真理と非暴力をとおして
自らの運命を達成するならば、
インドは、地上のすべての国々が渇望している
世界平和に小さな貢献をなしたことになるでしょう。
「わが夢のインド」森本達雄訳
「ギーター」は、私の母です。この永遠の母は、
ずっと私のそばにいて、私を見守ってくれています。
彼女は決して変わりませんでした。彼女は決して裏切りませんでした。
私が困難や苦境に陥ったときには、私は彼女の胸に避難所を求めます。
ガンディーの遺品「バガヴァッド・ギーター」
クリシュナよ、私は勝利を望みません。
王位も地上の幸福も欲しくありません。
私たちにとって、王位や地上の享楽、
あるいは生命がいったい何になるでしょうか
師匠たち、父親たち、祖父たち、息子たち、孫たち、
そしてその他の縁者たち クリシュナよ、たとえ
この者たちが私を殺そうとしても、私はこの者たちを
殺したいとは思いません
アルジュナよ、戦うための決心をして立ち上りなさい。
あなたの苦熱を振り払いなさい。そして戦いなさい。
賀川豊彦とガンディーの問答
賀川
「ギーター」で、クリシュナは暴力を推奨していますね。
普通の理解では、それは、実際の戦いであったように聞こえます。
ガンディー
私はそうは思いません。あなたは「ギーター」の全体を、
本当に文脈において、冷静に読まなければなりません。
最初に戦いについての言及があってからは、それ以後、
戦いについてはまったく触れられません。
あとは、精神的な談話だけです。戦いは存在しています。
ただしそれは、内部で進行している戦いです。
内なる善と悪の力です。この戦いは、ジキルとハイド、〈神〉と
〈サタン〉の闘いであり、人間の胸の中で起こっています。
「ギーター」は、二つの家族の間の戦争の歴史ではなく、
人間の歴史、つまり、人間の精神的闘争の歴史なのです。
寛容 諸宗教の平等
サティア 真理 アーグラハ 掴む 保持する
アルジュナよ、戦うための決心をして立ち上りなさい。
心の内に住む魂(アートマン)にあなたの心を固定して
あなたの行いをすべてこの〈私〉に投げ出しなさい。
そして、結果を得ようとか、「私のもの」という意識を持たずに、
あなたの苦熱を振り払いなさい。そして戦いなさい。
「ギーター」は歴史的な作品ではなく物理的な戦いを装って、
人類の心の中で絶え間なく続いている闘いを描くものであり、
物理的な戦いは、内的な闘いの描写より魅力的にするために
持ち込まれたに過ぎないと私は感じていました。
私は「ギーター」の教えの中に、暴力がまったく
存在しないと言いたいわけではありません。
「ギーター」が説くダルマは、非暴力の心理に
まだ目覚めていない者が、臆病者のように振る舞ってもよい
ということを意味しません。他者を恐れ、財産を蓄え、
感覚的快楽に溺れる者は、確かに暴力的手段を使って戦うでしょう。
しかし、だからと言って、暴力がダルマとして
正当化されることはありません。ただ一つのダルマしかありません。
ダルマ 法 義務 正義
非暴力とはモークシャ(解脱)を意味し、モークシャとは
サティヤナーラーヤナ(「真実としての神」)を実現することです。
しかし、このダルマはいかなる場合でも、恐怖のあまり
逃げ出すことを許容しません。私たちの理性を惑わす
この世界では、暴力は常に存在するでしょう。「ギーター」は、
私たちにそこから出て行かせる道を示していますが、
臆病者のように逃げ出すだけでは、暴力から逃れることはできない
とも言っています。
しかし「ギーター」には、文法に無知であっても解脱(モークシャ)を
熱望する人のために多くのことが書かれています。
女性であろうと、ヴァイシャ(平民)であろうと、シュードラ(隷属民)
であろうと、〈神〉への帰依があれば誰でも霊的な知識を
得ることができると、「ギーター」自体に書かれています。
誰に対しても嫉妬せず、慈悲の泉であり、エゴイズムがなく、
無私であり、寒さも暑さも幸福も不幸も同じように扱い、
常に寛容であり、常に満足し、善であれ悪であれすべての結果を
放棄して、味方も敵も同じように扱い、尊敬にも無礼にも
動じることなく、賞賛されても高ぶることなく、人に
悪口を言われても落ちこまず、沈黙と孤独を愛し、
鍛錬された理性を持っている、そのようなものが帰依者なのです。
「無執着ヨーガ」序文
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