夏の空永遠を生く魂よ
高尚と世俗の間(はざま)夏の潮
迎え梅雨マウント取りてしたり顔
ふくらはぎ攣りそうだけど夏日向
ラッキョウや丸々太り夏畑
■100分de名著❝谷川俊太郎詩集❞③ひらがなの響き、ことばの不思議
若松英輔 伊集院光 阿部みちこ
1980-90年代 この頃になると谷川俊太郎は日本の詩の世界を牽引
ひらがなの詩 子どもから大人 詩になじみのない人まで
詩を届けようと思うと平易でなくてはならない
ひらがなは誰でも入りやすいよいう効果があった
「なんだろう?でもなんか感じるな」年齢や性別を超えて
私たちの中に根づいているものに呼びかける
そういうものとしてひらがなの詩は力がある
「わるくち」 谷川俊太郎
ぼく なんだいと いったら
あいつ なにがなんだいと いった
ぼく このやろと いったら。
あいつ ばかやろと いった
ぼく ぼけなすと いったら
あいつ おたんちんと いった
ぼく どでどでと いったら
あいつ ごびごびと いった
ぼく がちゃらめちゃらと いったら
あいつ ちょんびにゅるにゅると いった
ぼく ござまりでべれけぶんと いったら
あいつ それから? といった
そのつぎ なんといえばいいか
ぼく わからなくなりました
しかたないから へーんと いったら
あいつ ふーんと いった
「くわのまわりを まわろうよ」訳詩:谷川俊太郎
Here We Go Round the Mulberry Bush
Here we go 'round the mulberry bush,
The mulberry bush,
The mulberry bush.
Here we go 'round the mulberry bush,
So early in the morning.
くわのまわりを まわろうよ
まわろうよ まわろうよ
くわのまわりを まわろうよ
はあはあさむい しものあさ
マザー・グースの翻訳という大きな仕事が舞い込んできました
大正時代 北原白秋が翻訳版を発表していました
口から耳へと伝わる詩 生きた日本語で表現したい
ひらがな表記へと向かわせました
谷川俊太郎の言葉「ひらがなにすることは 単に難しい漢字を
読みやすくするのではなく我々の心と体に根づいている
言葉の持っている音韻性 韻文としての性質に近づける
ただ言葉の中には意味や論理があるだけではなく言葉の面白さ・
手触りと戯れるということもみんなが知ってくれると言葉の世界が
豊かになる」
ひらがなの効果
漢字で書くと焦点を一点に合わせやすい
想い・思うは漢字にすると十を超える
ひらがなにすると10を超えるおもい それが全部入ってくる
どんな形にでもとれる言葉を使うということは間違った形で
とられる可能性もある 伊集院
表現者としての覚悟がいる「読み手がどう理解してもよい」という覚悟
ひらがなを読む時はゆっくり読まざるをえない
ひらがなの詩はより深く味わう機会が与えられる
「うらにはにはにわにわとりがいる」伊集院
通り過ぎないで立ち止まることをひらがなは求めてくる
「なくぞ」
なくぞ
ぼくなくぞ
いまはわらってたって
いやなことがあったらすぐなくぞ
ぼくがなけば
かみなりなんかきこえなくなる
ぼくがなけば
にほんなんかなみだでしずむ
ぼくがなけば
かみさまだってなきだしちゃう
なくぞ
いますぐなくぞ
ないてうちゅうをぶっとばす
「ぼく」が誰かによってまるで世界が変わってくる
ひらがなだから余地が大きい「涙を流してなく」とは限らない
赤ちゃんは必ずしもネガティブにないているわけではない
「僕はここにいるんだ」を表現している エネルギーの塊
その人の中から深く本当のものが出てくる 10:04
「にじ」
わたしは めをつむる
なのに あめのおとがする
わたしは みみをふさぐ
なのに ばらがにおう
わたしは いきをとめる
なのに ときはすぎてゆく
わたしは じっとうごかない
なのに ちきゅうはまわってる
わたしは いきをとめる
なのに ときはすぎてゆく
わたしは じっとうごかない
なのに ちきゅうはまわってる
わたしが いなくなっても
もうひとりのこが あそんでる
わたしが いなくなっても
きっと そらににじがたつ
(谷川)
「子どもって何だろう」と考えるときに反省するのは
子どもを「群れ」として一括して考えていないか?
大人は一人一人みんな違う人間だと思っている
だけど子どもという場合は子どもいう性質だけで
一括して考える危険がある 「一人一人の子どもが違う」
ということを前提にしておかないと変な一般論になる
私なんかいなくても世界は変わらない
でもこう感じているのは この子だけなんだ
その人が今思っていることは その人の心の中にしかない 若松
「いなくならないほうがよい」と感じる 伊集院
人間が自分の意志ですべてを止めることはできません
あなた自身が終わらせることなんかできませんから
「さようなら」
ぼくもういかなきゃなんない
すぐいかなきゃなんない
どこへいくのかわからないけど
さくらなみきのしたをとおって
おおどおりをしんごうでわたって
いつもながめてるやまをめじるしに
ひとりでいかなきゃなんない
どうしてなのかしらないけど
おかあさんごめんなさい
おとうさんにやさしくしてあげて
ぼくすききらいいわずになんでもたべる
ほんもいまよりたくさんよむとおもう
よるになったらほしをみる
ひるはいろんなひととはなしをする
そしてきっといちばんすきなものをみつける
みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる
だからとおくにいてもさびしくないよ
ぼくもういかなきゃなんない
この子は亡くなっていくのかな 若松
「死ぬまで生きた」ということに関しては一緒 伊集院
「おに」
こどものころは
つのなんか はえてなたった
ふさふさの まきげだった
おにごっこして あそんでた
ひとに いじめられて
だんだん つのが はえてきた
だんだん つめが のびてきた
なくことも わすれてしまった
生まれながらの悪なのか
子どもに向けてシンプルに書いたものが確信をつく
子どもは人間の本質のものを持っている
むき出しだからより刺さる 伊集院
子どもだって大切なことはちゃんとわかる
難しいことじゃないと本当のことじゃない そんなことはない
読者としての子どもを谷川は深く信頼していた 若松
(谷川)
言葉は意味というものが一番大切な要素としてあるが
実際に声に出してみると音の要素もあるし
言葉が描き出すイメージがある
「十二月」
おかねでかえないものを わたしにください
てでさわれないものを わたしにください
めにみえないものを わたしにください
かみさま もしもあなたがいらっしゃるなら
ほんとのきもちを わたしにください
どんなにそれが くるしくても
わたしがみんなと いきていけるように
4回繰り返される「わたしにください」
「私」を含めた人間共通の祈り
最後に「わたしがみんなと いきていけるように」
「わたし」が自分を子こえて「人と共にいる人間」になっていく
単数が複数になっていく 若松
「わたしにください」を繰り返すことで渇望している 伊集院
繰り返すことでより深いところに声が届いていく 伊集院
元々の正しいスピリットを見た 簡単そうなものを作ることが一番大変 伊集院
人間の真摯な営みというものが素朴な形に身を結んで行く時
私たちが思っているより力がそこに宿りそう
難しくすることが高尚だと思われている現代で
谷川さんは全く違う道を切り拓いて下さった
改めて大事にしたいと思いました 若松
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