2025年5月23日金曜日

知恵泉 林忠正

満開の河津桜へ目白来て

青き空花散る枝へ四十雀(しじゅうから)

走馬灯恨みを持ちて消えられず

夏木立苛めなど無視切り捨てる

夏草履大をも小は兼ねられず

 

■先人たちの底力 知恵泉 不屈の美術商 林忠正国賊と呼ばれて

ジャポニスム モネ ルノワール ゴッホ 日本美術ブーム

その熱狂を支えた日本人 美術商 林忠正(18531906)

高級ブティックのような接客でブランドイメージを作り上げ

大衆紙で日本特集を組むというメディア戦略にも打って出ました

史上初の試みでした 浮世絵の販売にも乗り出しました

奇策 国賊と呼ばれるようになる

 

ゲスト ヤマザキマリ(夫 ベッピーノ) 神山典士

 

1853年蘭方医の家に生まれる

18歳 開成学校(現在の東京大学)に入学

フランス語を専攻する(父の薦め)

パリ万国博覧会 

1878年 後、半年で卒業という時に中退 貿易会社に就職

1878年パリ万国博覧会開幕 ただ一人の通訳として働いた

忠正の日記(万博終了後 職を失う)

自らの力を頼りに働き生きていこう 独立の民でありたい

ジャポニスム 陶器 漆器 団扇絵 

ルノワール「団扇を持つ少女」 モネ「ラ・ジャポネーズ」

1884年 パリに美術店を開く

ジャポニスムの退化 衰退(粗製乱造されたり 勝手な判断で作り始めた

日本から送られてくるものは全然売れない)

 

知恵その一 あの手この手で本物の価値に気づかせろ

独自の接客術を展開 

「林の典雅な物腰で我々を未知の驚きに満ちた

世界へと道案内してくれる こういう作品を目にできたことは

発見であり 精神と目のための饗宴であり得難い

喜びであり大いに学ぶ機会であった」

と一外人客

 

作家 エドモン・ド・ゴンクールは忠正の常連客の一人でした

僅かなしみを見つけたとき、芸者の流した汗の跡と言ってのけた

メディア戦略 フランスの雑誌に忠正が紹介文を記載

諺も紹介 善は急げ 糠に釘 

浮世絵の販売へ 北斎漫画 

林忠正が輸入してくる浮世絵には印を押すようにした 品質の保証

浮世絵人気は下火になっていた 1920年代ブームが再来

浮世絵を海外に流通させたとして 国賊呼ばわりされることに

昭和になってもそのことは続いた

黒田清輝も法律を勉強に留学していたが絵が巧いので先生を紹介し

画家として一人前にしていた。

芸術のプロデューサーとしての力があった

 

あの手この手で本物ん価値に気づかせろ

ジャポニザン 日本美術愛好家 お客さんにも勉強させた

感性の表現者

1980年代までジャポニズムの影響などないと言われていた

葛飾北斎「富岳三十六景」と類似 セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」

 

忠正 さらなる活躍の場へ

パリ「オルセー美術館」ルノワール「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」

モネ「睡蓮」その館内の一角にあるのが バルトロメ「林忠正のマスク」

忠正は無名に近いモネ、ドガと親交を深めていた。

浮世絵がほしいその画家たちにただで譲っていた。

モネ「睡蓮のある庭」マネ「オランピア」ピサロ「エレニーの教会と農場」

利益を顧みず絵画に新風を巻き起こそうとしていた彼らを支援した

マスクはその証 

 

1897年パリ万国博覧会 日本館の事務官長への就任を依頼される

事務官長は農商務省のトップが歴任してきたポスト

異例のない抜擢 美術商を辞めろと言われ辞めることに

事務官長の報酬も辞退する 全権を要求

 

知恵その二 本当の利益とは何か考え抜け

事務官長を後押しした人物 それは伊藤博文

以前のパリ万博での失態を伊藤博文に報せていた

「万博は文化の戦争だ」日本をアピールするだけではなく

世界は何かを知らしめようとした忠正

自ら現場に立ち奔走

明治天皇と謁見したとき「もし美術品が失われたらどうするか」と聞かれ

「宝物とともに私も死ぬ覚悟でございます」と答えた

 

1899年フランスへの渡航中客船が沈没 ボートで救助される

命がけの展示計画だった 展示品の投げ売りは禁止

自国の利益を考えない忠正は売国奴と呼ばれた

それでも忠正は訴えた

「世界の商法に従え どうか目を大きく世界に向け 私ごとき個人の

悪口を言うより日本の文化を世界に示すことにご協力ください」

 

1900年パリ万博 法隆寺のお堂 日本古美術展の建物

鳥獣戯画など日本美術の名品が人々に感銘を与えました

 

人々にぜひ 日本古美術展を鑑賞するよう勧めたい

同展は日本が今を去ること千年前ヨーロッパの歴史において

ほとんど原始の時代にすでに独特の美術を作り上げ

その力量も優秀であったことを深く観客に感銘させるであろう

当時の新聞より

 

万博は文化の戦争だ 美術の力で世界に日本の存在感を

示そうとした願いが実を結んだのです

 

1905年日本に帰国 1906年林忠正 死去(享年53)

 

ヤマザキマリ

西洋と日本の文化を融合させることがどれだけ難しいか

創作物はひとつひとつ何であろうと芸術である

西洋的な文化意識の高かった人

コミュニケーションで色々な事を動かしていく

世界とつながってしまった日本のこれから先

どう捉えていくかそれまでの狭さく的な考え方や

保守性を1回ちょっと離れなきゃいけない

精神面での文化的な意味での豊かさこそが彼の芸術だと思う

自分が心強くなった 

こういう先輩がいたんだから怯まなくていいな

 

神山典士

フランスってブランディングの本家本元

ブランディングしていった上で高価なものを作る

今日ここでこうして取り上げてくれたお陰で

120年間の価値観が変わる 彼は喜んでくれていると思う

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