春の怪米露の突如逮捕状
人知れずほころぶ花の夕まぐれ
三分咲き日々声掛けん若桜
咲いてよし散って見事な山桜
八重桜虫に好かれて居座られ
■ザ・プロファイラー 燃やせ限りある命を
俳句の革命家 正岡子規
柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
草茂みベースボールの道白し
俳句をものにしたければ思うままに書くべし 「俳諧大要」
僕はモーダメになってしまった
生きているのが苦しいのだ 漱石への手紙
病床六尺
これが我世界である
しかも
この六尺の病床が
余には
広過ぎるのである 「病床六尺」
天下万民が争い
名をあげたいと望んでいる
私もまた
この一大競争場に加わり
天下万人と争いたい 叔父への手紙
升さんは年長者に負けない
気位と元気に満ちていた
口でも筆でも何でもおいでと言った
才気渙発(かんぱつ)なところもあった 「子規を語る」川東碧梧桐
正岡という男は
一向に学校へ出なかった男だ
そこで試験前に僕が行って
ノートの中身を話してやる
あいつのことだから
ええかげんに聞いて
ろくにわかっていない癖に
よしよし分かった
などと言って丸飲みしていた 「正岡子規」夏目漱石
愉快とよばしむる者
たゞ一ッあり
ベースボール也 「筆まかせ」正岡子規
その人はみずからこの一団の中心人物かのごとく
バッチングを始めた
そのうちボールは余の立っている前に
転がってきて
その人に投げた
その人は失敬と軽く言って
球を受け取った
その一言が
なんとなく人を惹きつけるものがあった 「子規居士と余」高浜虚子
偶然手に取った俳句の本
中には身にしみて感じる句があった
その瞬間その句やその本がおもしろいと思っただけでなく
俳句という者が面白いと思うまでになった 「俳句の初歩」正岡子規
1885(明治18)年17歳 初めての句
雪ふりや棟の白猫声ばかり
友人たちを巻き込む
子規はみずから作句もし
同宿生や友人にしきりに俳句をすすめるようになった
黙っていると句題を壁に張り出して
さぁこの題だ!などと押しつけてくる
我々はついに防ぎようなくて
いよいよ俳句の仲間に加わることとなった
「友人子規」柳原極道
1889(明治22)年21歳
結核の発病
卯の花をめがけてきたかほととぎす
(結核が自分にめがけて飛んできた)
この時から「ほととぎす」と書いて子規と名乗りようになった
余命を意識するようになった子規
夏目漱石が子規につけたあだ名は柿
(ウマミはたくさんだがまだ渋みもヌケキレズ)
子規が夏目漱石につけたあだ名は大将
(何でも大将にならなけりゃ承知しない男であった)
2人で道を歩いていてもきっと自分の思うとおりに
僕をひっぱり回したものだ 「正岡子規」夏目漱石
過去の俳句を調べる
生涯で集めた句 12万以上
1889(明治22)年22歳頃
俳句分類
室町時代から江戸時代の俳句 季節 言葉で分類
この仕事が完結することはない
ただ私の身が
死することを持って
完結とする 「俳句分類」正岡子規
天保以後の句はおおむね卑俗陳腐にして
見るに堪えない
だいたいが月並み調である 「俳句分類」正岡子規
(天保以降の俳句はパターン化し
似たような句が多くてつまらない)
時代が過ぎるにつれて
平凡な歌人ばかり
多く現れるのは
ひとつには
俳句そのものが
扱う範囲が狭いことが
原因だ 「獺祭書屋俳話」正岡子規
我が国の日はのぼりけり 不二の山
大空をとりまはしけり不二の山
月並み句からの脱却
1892(明治25)年25歳 新聞「日本」に就職
文芸欄の記者になる
掛稲に螽(いなご)飛びつく夕日かな
写生的な趣はこの時
初めて分かったような気がした
まだ平凡な句が多いけれど嫌味がなく
垢ぬけたような気がして
自分の句ながらうれしかった
「獺祭書屋俳話」正岡子規
1895(明治28)4月27歳 従軍記者として大陸へ渡る
1895(明治28)5月 帰国途中喀血 帰国後入院
近頃は俳門に入らんかと考えている
時間ができた際にはご教示を仰ぎたいものだ 夏目漱石
松山に英語教師として赴任
俳句をしようと誘った
1895(明治28)年8月 松山へ帰郷する
漱石が名付けた愚陀仏庵で同居
毎日のように句会を開く
批評する立場になると活気づく子規
世間話の時はそうでもないが
俳句の批評を請う場合になると
黙って原稿に目が注がれる
その目つきが非常に怖い
一語一語がひしひしとこたえる 「思い出づるまヽ」坂本四方太
1895(明治28)年10月
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
柿などというのは従来詩人にも歌よみにも
見放されているもので
ことに奈良に配合(組み合わせ)すると
いうような事は思いもよらなかったことである
余はこのあたらしい配合を
見つけ出して非常に嬉しかった
「くだもの」正岡子規
新しい俳句の形を探求していく この時28歳
鐘つけば銀杏散るなり建長寺 夏目漱石
時鳥と月を分類すると⇩
俳句会を徹底批判
俳句は文学の一部なり文学は美術の一部なり
すなわち絵画も彫刻も音楽も演劇も詩歌も
小説もみな同一の標準を以て論評し得べし
宗匠は伝統に沿った句を教えている
学識無き佳句無き廉恥無き節操無き今の宗匠
に対して余はほとんど改良進歩の望みが絶たれた
宗匠といえば程度が低く早く地底に葬って
その墓場より生まれる
新たな芽の成長を待つことを欲する
「文学八つあたり」正岡子規
芭蕉の俳句は大半が悪句駄句で
埋められており
最上といえるのは
わずかその何十分の一にすぎない
「芭蕉雑談」正岡子規
新たな俳句 写生
俳人 与謝蕪村
五月雨をあつめて早し最上川 松尾芭蕉
五月雨や大河を前に家二軒 与謝蕪村
絵として明確鮮明なのが蕪村
蕪村の発見はさあ根底からと言ってもいい程
まず子規を動かし
その興奮が我々にも伝染して初めて俳句の
大鉄槌で脳天をなぐられた驚きを感じていた
古人の恐るるに足らずぐらいの気迫を挙げていた
我々も参ってしまった
「子規の回想」川東碧梧桐
風景を目の前で見ているよう感じられた
写生句
春風にこぼれて赤し歯磨粉
家の中で句を案ずるより家の外に出て実景を見た前
実景はおのずと句になり、しかも下等な句にはならぬ
実景を見てすぐに句ができないこともあるだろう
されど目にとめていた景色は他の日に
空想の中で再現されて名句になることもあるなり
俳句仲間への手紙
子規の句会の提案により
自由に表現個性が発揮できるようになった
1895(明治28)年28歳
脊椎カリエスであることを医師より告げられる
余は驚いた
医師に対して
言うべき言葉の
5秒間遅れたなり
(余命はあと数年であることを意味していた。)
余の木皆手持無沙汰や花盛り 八木芹舎
夏嵐机上の白紙飛び尽す 正岡子規
知識から感覚へ変化 私はどう見ているか?
いくたびも雪の深さを尋ねけり
世界とのつながりは庭の草花だけだった
一輪の牡丹かゝやく病間哉
枝豆ヤ三寸飛ンデ口ニ入ル
病床六尺、これが我世界である
しかもこの六尺の病床が
余には広過ぎるのである
「病牀六尺」正岡子規
書くことの小苦痛のために
病気の大苦痛は忘れられていることが多い
書く時の苦痛は如何に強くても
この苦痛の結果が
新聞雑誌などの上に現れる愉快は
書く時の苦痛を消すに足るのである
「命のあまり」正岡子規
苦痛を和らげたのは弟子や友達
詩人去れば歌人座にあり
歌人去れば俳人来たり
長き日暮れぬ
病気の境遇となっては病気を楽しむ
ということにならなければ
生きて居ても何の面白みもない
「病牀六尺」正岡子規
1901(明治34)年33歳
筆を執ることもできなくなる
そんな子規を献身的に支えたのは母八重と妹律
なのに律に癇癪を起すようになる
律は強情なり
人間に向かって冷淡なり
特に男に向かってshyなり
「仰臥漫録」正岡子規
僕はモーダメになってしまった
毎日訳もなく
号泣しているような次第だ
僕はとても君に
再会することは出来ぬと思う
実は僕は
生きているのが苦しいのだ
書きたいことは多いが
苦しいから許してくれたまえ
夏目漱石への手紙
翌年にはモルヒネを使わなければならないようになる
自ら容体を題材に新聞の連載を続けた
絶叫。号泣。
その苦しみその痛み
何とも形容することは出来ない。
誰かこの苦しみを助けて呉れるもの
はあるまいか。
この苦しみを助けて呉れるもの
はあるまいか。
新聞社が連載を休止
今朝新聞ヲ
見タ時ノ苦シサ
ドーモタマリマセン
少シでも載セテ戴イタラ
命ガ助カリマス
1902年9月19日 正岡子規 死去(34歳)
絶筆の句
糸瓜咲き痰のつまりし仏かな 正岡子規
糸瓜の水は痰を切る
効果があると言われていた
その糸瓜を見ながら
痰が詰まっている自分は
既に仏となってしまった
生涯で書き残した句はおよそ2万4000
神野紗季女史 曰く
子規はマイナスをプラスに変える力を持っていた
岡田准一氏 曰く
悟りとはいつでも死ねることだと思っていた。
『悟りといふ事は如何なる場合にも
平気で生きている事であった』「病牀六尺」正岡子規
俳句を通して多くの人生を知り
豊かな人生哲学を育んだ
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