おかしみを抱きた言葉星月夜
秋の夜内なる感情前面に
疲弊や恨み不快の極み秋思
こむらさき庭の片隅賑やかに
月を背にツミ飛び続け渡りけり
■ゴッホが日本へやってきた!~名画の誕生と家族~東京編
大橋菜都子(東京都美術館学芸員)
フィンセント・ファン・ゴッホ (1853-1890)
マルカス炭鉱後 ベルギー
ゴッホが画家になった理由
①
弟テオが勧めた
ゴッホは美術商の会社で働いた経験を持つ
②
ゴッホが❝芸術の力❞を信じていた
③
芸術家になることで人々を救えると思った
ゴッホの父(牧師)テオドルス・ファン・ゴッホ
ニューネン オランダ
両親が住んでいた「牧師館」
ゴッホの弟テオ
テオ宛ての手紙 1880年9月24日
僕が描くことで彼らのような存在が世間に知られるようになれば
僕はうれしい
どこか人間味のあるささやかな痕跡を残したい
32歳 芸術の都パリへ移り住む
4階に2人の部屋があった
ゴッホとテオの関係とは❓
弟テオがゴッホを支えた理由
①
ゴッホの才能を信じていた
印象派…モネ、ルノアール
新印象派…スーラ、シニャックなど
②
画家仲間からゴッホが認められ始めた
テオの言葉
彼(ゴッホ)は現代のもっとも進歩的な画家の一人なんだ
人道的とはなにか、あるいは、われわれは世界をどうみなすべきか
さまざまな疑問について、彼はほかの考え方を一掃するようなすごい発想をする
ゴッホの家の近くの公園
ゴッホは色彩と筆づかいの研究に没頭する
弟テオ宛ての手紙より
僕らは絵を通してのみ何かを語ることができる 弟よ
君は単なる画商ではない
僕を介して君もまた作品の創造に関わってきたんだ
ゴッホの手紙の記述
いま 孤児男を描くのに忙しい
こういった街で見かけるような人物を描くのは簡単ではない
34歳(1888年2月) パリから南仏アルルに居を移す
ゴッホの作品を見ていく上で「自然」は大きなテーマ
自然と人との関わりというかゴッホがどう自然を見ていくか
耕された畑とか人が長いあいだ時間をかけて耕してきて
ここから生活の糧を得てきたその土地そのもの
暖かいまなざしをゴッホは共感を持って見ていたと思うので
そういう思いを感じる気がします
テオ宛ての手紙1888年9月3日
音楽のように人を慰める何かを僕は絵画で伝えたい
ゴッホが借りた「黄色い家」
PaulGauguin
共同生活破綻後のゴッホ(自画像)
36歳(1889年5月)サン=レミの療養院に入る
地中海沿いの明るい光 その下で見る煌めくような色彩にゴッホは感動する
そうした風景にいかに絵にしてゆくか と考えたとき
写真のようにそっくりに描いても伝わらないと考えた
様式化 装飾化 細かい筆触 リズミカルなモチーフの配置 「オリーブ園」
テオの妻 ヨー 子どもが生まれる
弟テオからの手紙 1890年1月31日
兄さんの名前を息子につけるつもりだ
兄さんのように決断力と勇気のある子になってほしいと願っているんだ
テオとヨーの息子 フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ
「花咲くアーモンドの木の枝」1890年
番組ではゴッホが喜んだことになっていますが…。
以前、私が聞いた話とは違うようです。
37歳南フランスを離れパリ近郊の町へ
オーヴェール=シュル=オワーズ フランス
ポール・ガシェ(医師/画家)と親交を深める
ポール・ガシェの言葉「ひたすら仕事して過去に目を向けるな」
「麦の穂」
50点を超える素描と74点の油彩画を製作
母アンナと妹ウィレミーン宛ての手紙 1890年7月14日
丘に向かって海のように広がる麦畑に僕はすっかり心を奪われている
僕は深く敬愛してきた画家たちに肩を並べようと頑張っている
1890年6月8日 テオ一家が訪ねてきた
テオ ヨー フィンセント・ウィレム
1890年7月6日 ゴッホがパリにあるテオの家を訪ねる
それから3週間後
1890年7月27日 麦畑の中で自分の胸を拳銃で撃った
ガシェが描いたゴッホの死に顔
その半年後 弟テオが病死
残された妻ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲル(1862~1925)
1905年 480点以上の作品による大規模な回顧展を開催
1914年 ゴッホの書簡集を発刊
手紙はゴッホの心の軌跡
ヨーの言葉
フィンセント(ゴッホ)の作品ができるだけ多くの人の目に触れ
正しく評価されるようにすること テオとフィンセントが
集めたすべての宝物を傷つけずに子供に遺すこと
それもまたわたしの使命なのだ
ロンドン イギリス
1924年ロンドンのナショナル・ギャラリーに「ヒマワリ」を売却
なぜヨーはゴッホのために尽力したのか?
ヨーが尽力した理由
①
テオの意志を引き継ぎたかった
②
ゴッホの芸術・思想に共感し尊敬していた
ゴッホの芸術を世に出さねばならない
という強い使命感を持つようになった
ヨーの死後、テオとヨーの息子
フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホが受け継いだ
ファン・ゴッホ美術館設立に尽力 オランダ・アムステルダム
ゴッホの弟テオのひ孫
シルヴィア・クレーマー(フィンセント・ファン・ゴッホ財団理事)
家族が守ってきた作品のそばで 子どものころは遊んでいるだけでした
でも大人になって この遺産を全ての人と
分かち合う重要性に気づきました それが私たちの唯一の使命なのです
ゴッホが亡くなって135年
世界中で愛されるようになりました
そのゴッホの作品が東京にやってきています。
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