2025年10月22日水曜日

心おどる 茶の湯 表千家 利休のこころと形②

「“最期の希望” 長寿社会の果てに」を詠む

安楽死認める国へ秋の空

最期こそ人間らしく秋の風

自分らしい死と向き合わん秋思

秋の夜を最期は自分らしく逝く

長き夜の最期の希望尊厳死

 

■心おどる 茶の湯 表千家 利休のこころと形②茶の湯と禅

京都 紫野 大徳寺 千利休像(江戸時代)

掛物 禅語が書かれている

聚光院(じゅこういん) 小野澤虎洞(こどう)

本来無一物(ほんらいむいちもつ)

意味は「本来は何も無い」「何もありませんよ」ということを言っている

六祖 慧能禅師(えのうぜんじ)(六三八~七一三)の言葉

金剛経(こんごうきょう) 応無所住而生其心

五祖 弘忍禅師(ぐにんぜんじ) 悟りの境地を表せ

菩薩本無樹

明鏡亦非台

本来無一物

何處惹塵埃

 

無心の境地にはなかなかなれないんですけど

そういう気持ちになりたいということでね

一生懸命修行してやってもらってお茶でもそうですけどね

お点前するときも一生懸命無心に打ち込んである

指針になるわけです禅の言葉が

利休さんもそういうことは重々承知で

やっぱり悟りを開いている人ですから

茶碗か欠けてもいい 花は野花でいい 

ごく自然なことを言っている 私なんかもそう思うんだけれども

お茶というのはもっと自然でやる そういうところから

枯淡なわびたお茶になってきたんじゃないですかね

 

半跏趺座(はんかふざ) 

数息観(座禅を組んで心の中で息を数える方法)

静かに自分の息を数えることに専念する

 

表千家 十五代家元 千宗左

西江水(せいごうすい) 大龍和尚筆 利休居士参徳此話了

一口吸尽西江水(いつくにきゅうじんすせいこうのみず)

万法を超越した唯一絶対の人とはどのような方ですか?

お前が西江の水を一口で飲み尽くしたら教えてやろう

 

利休忌(表千家では327)

猶有斎(ゆうゆうさい) 猶有這箇在(なお這箇(きりがない)の在る有り)

 

日々是好日(にちにちこれこうじつ) 即中斎 筆

花入 南紀檜籠 床飾り

 

席入り 掛物の正面まで進む 座ったら扇子を前に置き掛物に一礼

花入れと花を拝見 

弄花香満衣 掬水月在手 寛海和尚 筆

如意蛙ノ画サン 英宗和尚 筆 画賛 絵賛という

如意(僧が使用する道具のひとつ)

悟りてもおれはやっぱり青蛙

虫行列ノ絵 望月玉成 筆

白露や茨の棘のひとつづつ 即中斎 筆

炉頭無賓主 頴川和尚 筆

 

大徳寺聚光院

喫茶去(きっさこ) 伝外宗左 筆

お茶でも飲め お茶でも飲んで帰れ

公案(禅問答)「趙州(じょうしゅう)の喫茶去」

趙州禅師(七七八~八九七)

以前にここに来たことがあるか?ありません 喫茶去

以前にここに来たことがあるか?あります 喫茶去

院主(いんじゅ) 

来たことがないものにも来たことがあるものにも

なぜ「喫茶去」とおっしゃるのですか?

院主さん はい 喫茶去

修行が足りない出直してきなさい

お茶を飲むという日常生活が仏法そのもの

ご住職の解釈は?

趙州は悟りを開いているから「喫茶去お茶でも飲んで行け」

繰り返し言っているわけです

ほかの人には「これを説明しなさい」というのは中々難しい

やっぱり悟りを開かないことにはそれを分かろうとしてもいいし

無理して分かろうと思わなくてもいい 字のごとく

「お茶をどうぞ」それでいいんじゃないですかね

 

毎日午後三時に行われる「茶礼(されい)

その時部屋にいる人は全員集まってお茶を飲みます

ご住職による「喫茶去」

もともと禅寺では昔から茶礼というものがある

点呼の意味もあって人が多かったから みんなだこうやって

集まっていろんな話をね上も下もなく あれがおいしい

これがまずいとかね だから三時には必ずここに

三時になったらうちに来たらいつもお茶を飲みますから

わごうの精神ということが必要で一般の家庭もこうやって

茶礼をちゃんとみんな顔合わせてやらないといけない

顔合わせることないからね それじゃいけんから

たまたまこの台があったもんですから ちょうどこれ(魔法瓶)

はめてみたら合うから こりゃいいな これで新しいお点前でも

作ってもらえたら ありがたい 簡単でいいですよ

これ「聚光院流」でね

 

これこそ利休の目指した侘茶の心。

 

私感

嬉しかった…。

実は私「チン点前」編み出し毎日、いただいているもので…。

これが美味しくて、日々の楽しみとなっています。

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