秋の色知れば知るほどリスペクト
咲き始む母の嫌った彼岸花
堤防を真っ赤に染めん彼岸花
秋の山白く可憐なそばの花(猿飼集落)
男たれ声裏返し秋の月
■美の壷「民藝」
民衆的工藝品 訳して「民藝」
名付け親は 思想家「柳宗悦」 陶芸家「河井寛次郎」 陶芸家「濱田庄司」
三人が木喰仏(もくじきぶつ)を集めている時に命名
機能的で健やかな作品
バーナード・リーチも民藝運動に身を投じた
映画監督マーティ・グロスは全国を回り映像に記録
百年前に生まれた民藝は今も人気
伝統を継承しながら進化を続けています
鉄瓶 やむちん
「暮らしが仕事 仕事が暮らし」河井寛次郎
壷一、集い 和になる
京都
河井と濱田は同じ大学で学んだ同級生 京都の就職先も同じ
共に創作の道を歩む
浜田は大正9年イギリスに渡る(バーナード・リーチといた)
河井は京都で新進陶芸家として頭角を現す
関東大震災1923年(大正12年)民藝運動が始まった
柳は京都に住まいを移す
そこで河井 柳 濱田が京都に揃う
柳が河井の作品を批判 二人は避けていた
そこを取り持ったのが濱田と木喰仏
下手ものと呼ばれ軽んじられてきた民衆の工藝品
民藝にこそ真の美しさは宿ると考えた
1931年創刊「民藝」編集長 髙木崇雄
柳が見出していく美しさというのはみんなで共有できるもの
柳とその周辺の民藝運動 同人と呼ばれる人たちは
単に物をつくって売るというだけでなく
一つの社会の美 公共の美 みんなの美というものを
つくり出すために活動してきた
沖縄
やちむん(やきもの) チューカー(酒器)
柳は昭和13年から沖縄を訪れ100日ほど滞在
「私たちは沖縄で学ばねばならぬことが いかに多いか知ったのです
そうして こんな土地がこんな状態で
今なお地上に残されていることを 軌跡のごとく感じました」
紅型(びんがた)
柳は沖縄を訪れるたび、紅型や上布を買い求めた
紅型作家 冝保聡
夜に咲く「下がり花」に合わせて「こうもり」を飛ばした
「柳さんの一行が来て それを買って持って帰らなければ
もう灰になっているかもしれませんし どういうふうに繋いでいくというのは
これからの僕世代の課題でもあるので やっていくべきではないか」
壺二、風土を映す色と形
陶工 松田教司
アンダーガーミ(油壷)ラードを入れるふたもの
沖縄の美学というのはさくましさ 力強さ 健康である 美しさ
憧れてきた人 金城次郎
次郎さんの作品というのは 誰にでもできそうでできない
普通にある器なんだけど できない 青竹を割ったような清々しさがある
非常に健やか ねじくりまわしてない
陶工(人間国宝)金城次郎
12~13歳の時に住み込みで働きます 先輩の人たちが夜
仕事を終えて 工房から帰ると 次郎さん達は職人さんたちが使っていた
ろくろの上に座って 一生懸命練習するわけです 人に教えられて
言葉で学ぶのではなくて それを身体につけていくわけです
次郎さんは壺屋の多様な技法なり技術なりを身につけ自分のものにしていく
金城次郎館 事務局 九髙美佐子
使ううちに次郎さんの素晴らしさ 良さが わかってきた
言葉では言えないけれど体で感じていたのかな
私たちにとって金城次郎というのは 沖縄の宝
民藝の担い手たちも一目置いていた
河井と濱田は柳より20年前に壺屋(金城)を訪れています(大正7年)
濱田は冬になると壺屋で作陶 1940年(昭和15年)の壺屋
数年すると濱田庄司が教えるより聞くわけです そうなっていくと
濱田庄司も次郎さんを尊敬します 次郎さんは濱田庄司に
近い感じを持つようになる 内地の有名は作家の先生と
見習い陶工の立場から やがてお互いに自分の知っていることを
分ちあうような関係になっていったのだと思う
次郎さんは伝統の仕事をする職人 濱田は伝統を踏まえた創作的な
仕事をする作家 2つの民藝の道を代表した人だと思う
益子 栃木県芳賀郡益子町 濱田庄司が暮らした町
京都 イギリス 沖縄で経験を積みながら大正13年創作の拠点とする
益子参考館 事務局 濱田雅子
厨子甕(ずしがめ)沖縄 遺骨を入れる 死者を弔う
山水土瓶 運命を決定的にした 絵付けに惹かれた
「苦しくても 焼き物村に入るのが本当の道」
理想を実現できる場所を探していた
陶芸家として初めて人間国宝(昭和30年)となる
陶芸家 濱田友緒(濱田庄司の孫)
濱田庄司の目で見て健やかな雰囲気のもの 自分で作ったものも
そういう健やかなものでありたい そのためには豊かな自然と
豊かな自然の中の立派な建造物 華美なものでなくて
素朴なものですけれど 民藝と向き合って自然に
わいてくるかのようにものをつくりたい それには健康な営みや
健康な精神が必要だと 喜怒哀楽が人生にありますから そういうものを
全部ひっくるめて 自然の営みの美しさというんですか それが
かたちになったものを いただいてくるという感じなんです
京都で道を見つけ 英国で始まり 沖縄で学び 益子で育った
自分の仕事というのは 5~6年かけて覚えたものを
10年以上かけて捨てて捨てきったところに 本当の答えがあるんだ
濱田庄司が参考にしたのは職人たちの手技でして 自分を捨てきって
機械のように日々仕事をしていくんですけれど
機械ではなく人間なので 正確な仕事にも味わいとか温かみが出るわけです
濱田窯
柿釉 素材と友だちになるのは難しい
民藝とは庶民の芸術 暮らしの中にある美しさ
英国 芸術家 バーナード・リーチ
20世紀を代表する芸術家 1920年イギリスに登り窯を構えた
リーチ工房 イギリス セントアイヴス
1934年日本を旅した時のフィルムが残っている
映画監督 マーティ・グロス 本人からの依頼で修復保存をしている
民藝の本質を捉えていた
バーナード・リーチ
「彼(濱田)の弟子たちは作業を把握している 段取りがあるんだ
彼らは段階ごとにさまざまな訓練を受ける 彼らは手を良く動かして
作陶を行った 我々以上にね 一方でその動きには無駄はなく
絶妙なバランスを保っている そこにリズムを生じる
神秘的な光景だった」
Potters at Work(1976)「陶器を作る人たち」
上映会 主催者 大角康
「私自身 背景を仏教に持っている 特に禅に持っているもの
なんですけれども 禅と民藝のつながりというのは 私は
個人的に以前から感じていたのですけれども
つまり修行生活全般です 草をむしったり 枯れている花を
入れ替えたり 掃き掃除とか ふき掃除もそうです
お料理も洗濯もアイロンがけも そういった生活のことを
僕は淡々と呼びたいのですけれども この淡々という点において
禅と民藝というのは全く手を取り合うのではないかなと思うんです
それを見てホッと気持ちが安らぐとか 民藝品はどれを見ても
すごくかわいらしかったりとか 力みがなくて ホッとする温かみを
持っていたりとかする 道具がすごく多い ホッと肩の力を抜いて
これでいいじゃない というような気楽さ 温かさみたいなものを
感じていただけたのではないかと推測というか希望しています」
壺三、淡々が生む温かさ
福岡県朝倉郡小石川
陶工 太田哲三
マーティ・グロスは映画の舞台を探していた
美しい自然と陶工 太田熊雄さんの手技が決め手となりました
昭和29年マーティ・グロスが小石川にやってきました
バーナード・リーチ
「ぐっと情熱が湧いてきたと思うのです 民藝に対する何か
大きな人たちにも ぜひ会って話を聞きたいとか そういう気持ちは
常々持っていたみたいです つくるものに対しての自信とか
そういうものも含めて ひとつのものをみんなに喜ばれるものを
つくりたいという気持ちはあったみたいです」
バーナード・リーチが訪ねて22年後 記録映画製作をしようとしています
昔の小石川の文化がまだ残っているから 日用品は段々変わっちゃう
50年前のものですから 現代の人と話して どういう印象とか
どういう意味とか それを聞きたい ものを見て 昔の人の人生とか
どこから出てくる どういうふうにつくりました どこから
その手創りのノウハウが出てくるか 素材のこともある
日本の民藝の基本も 素材は大事 素材をわからないと
いいものをつくれない 日本だけじゃない もちろん
人間の手はどこにでもある
あえて民藝を意識して ものをつくっているわけではない
基本となる庶民の人たちが みんな使えるもの 形を変えながら
そういう技法は 守っていきたいと思っています
岩手県盛岡市
南部鉄瓶が発達しました 茶の湯釜
創業者 及川四郎(宮沢賢治の1年後輩)
卒業後は出版社を立ち上げ 宮沢賢治の本を出版
「注文の多い料理店」営業先には鉄瓶を持って行くほど
鉄瓶に誇りを持ち愛用していました
昭和2年 鉄瓶工房を立ち上げました
たびたび東北を訪れていた柳に四郎さんは出逢い交友を深めた
柳宗悦から及川四郎に宛てた手紙が残っています
「民藝運動は活発な未来を約束される」
「民藝」編集長 髙木崇雄
柳は「見て知りそ 知りてな見そ」ということをよく言います
まず見なさい そのあと知りなさい 一つのものをきっかけにして
その背後とか そのものがどういうふうに なぜ自分は美しいと
思うんだろうかとか あるいは 自分が良いなと思うものが
どうやってつくられているのだろう どんなところで
つくられているのだろう どんな人がつくっているのだろう
ということを 知っていくことで 自分の中の暮らしの豊かさと
いうものは もっと広がっていく それ自体が 柳たちが目指した
民藝運動の小さな実践になるのではないか と考えた
壺四、ものをよく見る そして知る
三代目 佐々木和夫
鉄というのは 生き物と表現する人もいます
私たちの師匠たちは 実は 魔物と言ったのです
ちゃんと作業を進めても なかなかうまくいかないものだと
そっちの方が強かったのです
大粒の突起は「鬼霰(おにあられ)」と呼ばれます
400年前からの技法で守り作られています
四代目 佐々木健二
鉄瓶は使うことで風合いを増していきます
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