2024年8月21日水曜日

こころの時代 ヴィクトール・フランクル(5)「何か」に支えられて

秋めくや手書きの声の聞こえくる
秋高し幼きスター堂々と
淡々と役割熟す秋の晴
青き空刈る人来たる迎え盆
鳳仙花祖父奪う合う孫二人

■こころの時代 ヴィクトール・フランクル(5)「何か」に支えられて
人間に生まれつき備わっているもの それは「意味への意志」です
さらに「究極の意味」を知りたいという意志や欲求も存在します
ヴィクトール・フランクル(1905~1997)

どうやら強制収容所は、まさに私の卒業試験だったらしい。
人間が本来有している根源的能力、つまり❝自己超越❞と
❝自己距離化❞の能力は、強制収容所で実存的に検証され、
正当性が証明されたものである。

ロゴセラピーを身をもって実践したのです。
奇跡に近い体験を 究極の意味、超意味 と名付けた

どんなことでも、人に起こることにはすべて、
何らかの究極的な意味があり、まさに超意味があるはずだ。
しかし、人はこの超意味を知ることはできない。
人はただそれを信じるほかないのである。

勝田茅生 小野正嗣

究極の意味
シナゴーグ ユダヤ教の礼拝・集会堂
破壊されたシナゴーグの瓦礫から父親は石を持ち帰っていた
そこに刻まれていたのはモーゼの十戒だった。

あなたの父母を敬え そうすればあなたは あなたの神
主が与えられる土地に長く生きることができる
「旧約聖書」出エジプト記20章12節

メンゲレ博士は、私の両肩を私から見て右の、
生き延びられる人たちの方にではなく
左のガス室行きの人たちの方に向けた。
しかし、私の前にいたそこに送られるべき人たちの中に
知り合いがいなかったのと、逆に何人かの
若い同僚が右に選別されたことに気づいいたので、
私はそのまままっすぐに進まずに、
メンゲレ博士の背後を回って右側についたのである。
一体、どうしてそんなことを思いついたのか、そして
どこからそんな度胸が出たのかは、神のみぞ知るである。
「フランクル回想録」

私は自分の背広の代わりに、ぼろぼろに着古された、
明らかにガスで殺された囚人の着ていたものと
思われる古い上着をあてがわれましたが、そのポケットの中に
祈祷書から破り取られたページが一枚入っていました。
そこにはユダヤ教主祈祷がヘブライ文字で書かれていました。

あなたは心を尽くし 魂を尽くし 力を尽くして
あなたの神 主を愛しなさい 「旧約聖書」申命記6章5節

この「偶然」をどう解釈したらいいのでしょうか?
それは、自分の書いたことをこれからは
生きざまで示せという意味が突きつけられた。
という他に考えようがありません。
というのも、それ以前にはちょうど私の書いた本の草稿が
隠されていたのとまったく同じように、この祈祷の紙が
その日から私の上着の中に隠されることになったのですから。
「Dir Sinnfrage in der psychotherapie」

どこを見ても誰も見えない。自分のまわりには、
遠くまで続く大地と天と、ひばりの喜びの鳴き声と、
広々とした空間以外には何もありません。
そこで私はこの開けた空間の中で歩みを止めます。
そこに立ち止まって、自分のまわりを見渡し、そして
上方を見上げます。私は自分の心の中にただ一つの言葉、
それもいつも繰り返される同じ言葉を耳にするのです。
「私は狭い谷底から主を呼んだ。
そして主は広い空間の中で私に答えてくださった」と。
「夜と霧」

こちらがヴィクトール・フランクルの「テフィリン」聖句箱です
ユダヤ教ではキッパ(小さな帽子)をかぶり 腕と額にテフィリンを
着用して祈りを捧げます この皮でできた箱の中に聖句が入っています
私は 偶然一度見かけただけですがフランクルは毎日使っていたと思います
フランクルの娘婿 フランツ・ヴェセリー

祖父は彫像が好きでした ある日祖父は
この2体を買ってきてここに置きました
そして「この2体は僕と妻エリーの結婚を表している」と言っていました
カトリックの妻 そしてユダヤ教のモーセ この2つが
一つの屋根の下で調和しています
祖父は宗教は言語のようなものだと言っていました
「他の優れた言語などない 他の言語より正しい言語はない」
「どの言語でも真実を話すことも嘘をつくこともできる
宗教も同じだ」
「悪用することもできるし 価値を見出すこともできる」
「そしてそれは私たちの中にあるものなのだ」と
祖父は常に人間学的な視点に立っていました
人間の存在とは何か?それはスピリチュアリティを伴うものなのです
フランクルの孫 アレクサンダー・ヴェセリー

ヴィクトール・フランクルはすべての宗教は平等であると考えていた

私は合理的な概念で、神が一体存在するのかしないのか、
どちらが真実なのかを決めることはできません。
もし半分ずつの可能性があるのなら、自分の全存在を
天秤の一方に皿に載せることしかできません。
私は自分自身を究極の意味にかかわる方の皿にゆだねるでしょう。
私はどんなときでもこう言えます。「これは心の底から出てきた
願望です。これが私の存在の全てなのです。たとえそれを
合理的には理解することができないとしても、究極の意味が
存在するに違いないという確信は心に深くしみわたっています」
「Das Leben wartet auf Dich」

この地上には、二種類の人間がいます。
それも、品格のあるしっかりとした「人間」か、
またそうでない「人間」か、この二種類だけなのです。
そしてこの「二種類の人間」は両方とも一般的に広まっていて、
どんなグループにも入り込み、至るところに浸透しています。
つまりどんなグループでも、品格のあるしっかりした
人間だけで成り立っているということはないし、あるいは、
しっかりしていない人間だけで成り立っているということもないのです。
「夜と霧」

Anstandig 品格 Monanthropisumus 一人類主義
集合的評価は良くない
人間 世界に対する信頼を持っていた

意味ということを根源的に問うならば
この世界の出来事全体に意味があるとは考えられないでしょうか。
まったくの無意味か、すべてが有意味かという決断は、
論理的に考えると、根拠がない決断です。
人間は、もう倫理的な法則からこの決断を下すことができません。
ただ自分自身の存在の深みから、その決断を下すことができるのです。
ただ一つのことははっきりしています。究極の意味、存在の超意味を
信じようと決断すると、その創造的な結果があらわれてくるでしょう。
信じるというのは、ただ「それが」真実だと信じるということ
ではありません。信じることを、真実のことにするのです。
たんに考え方の可能性にすぎないものを実現することなのです。
「それでも人生にイエスという」

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