2024年8月15日木曜日

100分de名著 選❝新約聖書 福音書❞(1)悲しむ人は幸いである

松本俊介氏と莞氏へ
風死すや大地踏みしめうつろな目
風薫る童画へ愛を加筆せり
炎昼や聞こえる無音風景へ
朝の空送り続けた絵手紙と
喜びは無言の中に夏旺(さか)ん

■100分de名著 選❝新約聖書 福音書❞(1)悲しむ人は幸いである
若松英輔 伊集院光 阿部みちこ

旧約聖書はユダヤ教の聖典
旧約聖書+新約聖書はキリスト教の聖典

新約聖書 福音書(喜びの知らせ) 基本情報
内容 救世主イエス・キリストの生涯を伝える
4つの福音書 マタイ マルコ ルカ ヨハネ
成立 イエスの死後 紀元1世紀後半~2世紀頃

イエスの生涯
誕生 
み使いは言った、
「恐れることはない。わたしは、民全体に及び、
大きな喜びの訪れを、あなた方に告げる。
今日、ダビデの町に、あなた方のために、
救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである。
あなた方は、産着にくるまれて、飼い葉桶に寝ている
乳飲み子を見出すであろう。これが徴(しるし)である」。
「ルカによる福音書」2・10・12

「喜びの知らせ」を王は喜ばない
イエスが教えてくれる世界は等しさの世界
イエスの誕生という福音は羊飼い=民衆に伝えられた
2歳以下の子供を全員殺すよう命じた

受洗 
洗礼者ヨハネからイエスが洗礼を受ける
洗礼者ヨハネの言葉
「わたしは水であなたがたに洗礼を授けるが、
わたしよりも力のある方が来られる。
(略)その方は精霊と火で、あなたがたに洗礼をお授けになる。」
(ルカ3:16)

精霊=神のはたらき 「精霊」「風」=プネウマ
「火」=生きていくうえでの試練 
イエスは弱い人間に寄り添っていく

自分の貧しさを知る人は幸いである。
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人は幸いである。その人たちは慰められる。
柔和な人は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人は幸いである。その人たちは満たされている。
憐れみ深い人は幸いである。その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人は幸いである。その人たちは神を見る。
平和をもたらす人は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害されている人は幸いである。
天の国はその人たちのものである。
「マタイによる福音書」5・3-10

貧しさ=心のありようの不完全さ
等しさ 神の前にみな平等

衣の触れる人を探す
出血病に苦しむ女性
イエスのことを聞いた彼女は、群衆に交じり、
後ろのほうからイエスの衣に触れた。
イエスの衣にさえ触れることができれば、
救われるに違いないと思っていたからである。
すると、立ちどころに血の源が乾いて、
病気が治ったことを体に感じた。
イエスもまたすぐに、ご自分の中から
力が出ていったことに気づいて、群衆のほうを振り返り、
「わたしの衣に触れたのは誰か」と仰せになった。
「マルコによる福音書」5・7-30

彼女は自分に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、
イエスのもとにひれ伏し、すべてをありのままに申しあげた。
そこでイエスは仰せになった、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。
安心して行きなさい。もうこの病気で悩むことはない。」
「マルコによる福音書」5・33-34

イエスの衣に触れるということ
私たちの中には自分を癒すだけの力は備わっている
苦しむ人の立場に立つイエス
イエスはどんな人でもイエスの方から探してくれる

「医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人である。
『わたしが望むのは犠牲(いけにえ)ではなく、憐みである』
ということが何を意味するか、学んできなさい。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、
罪人を招くためである」。
「マルコによる福音書」9・12-13

罪人を招くイエス 罪=ハマルティア(的外れ)

私たちの罪を拒絶するのではなく共に生きるためにイエスは来た
イエスの考えに「裁き」がない
我々の存在は誤りゆえに飛躍するのではないか

宣教 奇跡 受難 復活

有名なイエスの「山上の説教」では「悲しむ人たちは幸いである」と説かれ、
誰が偉いかを競い合う弟子たちには「幼子の一人を受け入れる者は、
わたしを受け入れる者である」と語る。
彼の生涯は一貫して「悲しむ人」「小さき人」「蔑まれた人」たちと共にあったのだ。
これらの言葉にはあらゆる宗教を貫く神髄があるという。
第一回は、イエスの生誕、受洗、最初の説教などを通して、
イエスの生涯に込められた深い意味を探る。
NHKプラス https://plus.nhk.jp/watch/st/e1_2024080506242 参照

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