2023年8月31日木曜日

司馬遼太郎「覇王の家」3

スイッチインタビュー 坂本龍一&福岡伸一
認識の牢屋で過ごす秋の蛇
全ての者は無の残響である秋意
草の穂や解き放たれた音に酔い
鬼灯や心の呼応思い遣り
盆過ぎて耳傾けんasync(えいしんく)

坂本龍一 福岡伸一 スイッチインタビュー
https://www.nhk.jp/p/switch-int/ts/K7Y4X59JG7/

■司馬遼太郎 覇王の家3 人生最大の戦果はこうして生まれた
信長が死ぬと、
頭痛が一時にとれたように、
別人になった。
家康は別人になったというより、
相手次第で、
自分を変化させるという老獪(ろうかい)さを
身につけてきた。

▪司馬遼太郎の表現
信長 芸術家
秀吉 政治家
家康 高級官僚

羽柴という男は、食えぬ
どうせ羽柴も、ほろぶ
(すると、天下はあの小男のものか)
と思っても、すぐには実感は湧かない。
なんといっても信長から、
猿、猿、とよばれて追いつかわれていた
あの貧相な、五尺にも満たぬ
足軽あがりの男が、
覇王の衣冠を身につけるのである。
が、決めねばならない。
この新事態に応ずる
徳川家の態度をである。
秀吉に属するか。

家康は秀吉をなめていた

(―勝てる)
という自信が、
数日して家康に湧いてきた。
敵陣の旗の動きを遠望するに、
どうも統制がとれていないように思える。
秀吉の軍容は、
いかにも天下軍の華やかさをそなえ、
旌旗(せいぎ)林立して
大いに壮(さか)んではあったが、
しかし奇妙なまでに重圧感はない。
―諸将は、逸(はや)っている。
と、家康はみている。

「―長久手の一戦では」
と、家康が後年、
秀吉の傘下に入ったのちまで
これを諸大名にほのめかし、
自分が秀吉に対する
唯一の勝利者であったということを
つねに世間に記憶させ続けようとしたが、
事実この戦いは、
無形ながら家康のその後の生涯にとって
最大の資産になっている。

司馬遼太郎氏は昭和18年に戦場に出て
昭和20年22歳で終戦を迎えた

司馬遼太郎の戦争への思い(1970年)
日本に家康のような将軍がいたら
あんな惨めな負け方はしなかったんじゃないか
長久手の戦いで討ち死にしたような
無謀な指揮者がいたから
多くの将兵を死に至らしめたんじゃないか

司馬さんは秀吉軍をアメリカ軍のように
感じたんじゃないか
人数の少ない家康軍が実は日本軍…。
だと想像している。   阿部龍太郎氏

敗戦の日の実感は、
なぜこんなばかな戦争をする国にうまれたのか。
ということでした。
むかしの日本人は、
すこしはましだったのではないか。
でなければ、
民族がここまでつづいてきたはずがない。
しかし、私には、
❝むかしの日本人❞
というものが、よくわからなかったのです。
だから、私の作品は、
一九四五年八月の自分自身に対し、
すこしずつ手紙を
出してきたようなものだ。
ということです。
「なぜ小説を書くか」「司馬遼太郎が考えたこと」(15)

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