罠にかかった鹿襲う熊春の闇
春の山動けぬ鹿を食らう熊
過疎の春猿の襲撃後絶たず
春の山猿抱きつくや噛みつくや
■10min.ボックス古文・漢文 竹取物語
江戸時代に描かれた絵巻
いまはむかし、たけとりの翁といふものありけり。
野山にまじりて竹をとりつつ、よろづのことにつかひけり。
名をば、さぬきのみやつことなむいひける。
その竹の中に、もと光る竹なむ一すぢありける。
あやしがりて、寄りて見るに、筒の中光りたり。
それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。
かぐや姫の謎
この児、やしなふほどに、すくすくと大きになるまさる。
黄金のある竹を見つくることかさなりぬ。
かくて、翁やうやうゆたかになりゆく。
屋の内は暗き所なく光満ちたり。翁、心地悪しく苦しき時も
この子を見れば苦しきこともやみぬ。
かぐや姫の時代
「ゆるさじとす」とて、率ておはしまさむとするに、かぐや姫答へて奏す。
「おのが身は、この国に生れてはべらばこそ、使ひたまはめ、
いと率ておはしましがたくやはべらむ」と奏す。
帝「などかさあらむ。なほ率ておはしまさむ」御輿を寄せたまふに、
このかぐや姫、きと影になりぬ。
このかぐや姫、きと影になりぬ。
立て籠めたる所の戸、すなはちただあきにあきぬ。
格子どもも、人はなくしてあきぬ。嫗(おうな)抱きてゐたるかぐや姫、
外にいでぬ。えとどむもじければ、たださし仰ぎて泣きをり。
そのよしうけたまはりて、士(つわもの)どもあまた具して
山へのぼりけるよりなむ、その山を「ふじの山」とは名づける。
その煙、いまだ雲の中へ立ちのぼるとぞ、いひ伝へたる。
■10min.ボックス現代文 羅生門(芥川龍之介)
芥川龍之介(一九八二―一九二七)
ある日の暮方のことである。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
広い門の下には、この男のほかにだれもいない。
ただ、所々丹塗(にぬ)りのはげた、
大きな円(まる)柱に、きりぎりすが一匹とまっている。
羅生門が、朱雀大路(すざくおおじ)にある以上は、この男のほかにも、
雨やみをする市女笠(いちめがさ)や揉鳥帽子(もみえぼし)が、もうニ、三人は
ありそうなものである。それが、この男のほかにはだれもいない。
雨は、羅生門を包んで、遠くから、ざあっという音を集めてくる。
どうにもならないことを、どうにかするためには、手段を選んでいるいとまはない。
選んでいれば、築地(ついじ)の下か、道端の土の上で、飢え死にをするばかりである。
そうして、この門の上へ持ってきて、犬のように捨てられてしまうばかりである。
選ばないとすればー下人の考えは、何度も同じ道を低回したあげくに、
やつとこの局所へ逢着した。
朱雀大路の南端に建つ二階建ての建物が「羅生門」(現在は羅城門と呼ばれている)
その髪の毛が一本ずつ抜けるのに従って、
下人の心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。
そうして、それと同時に、
この老婆に対する激しい憎悪が、少しずつ動いてきた。
―いや、この老婆に対すると言っては、語弊があるかもしれない。
むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分ごとに強さを増してきたのである。
語り手と下人の距離
下人にとっては、この雨の夜に、
この羅生門の上で、死人の髪を抜くということが、
それだけですでに許すべからざる悪であった。
もちろん、下人は、さっきまで、自分が盗人になる気でいたこと
なぞは、とうに忘れているのである。
今日の空模様も少なからず、この平安朝の下人の
(サンチマンタリスム)Sentimentalismeに影響した。
しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、
その裸の体を起こしたのは、それから間もなくのことである。
老婆は、つぶやくような、うめくような声をたてながら、
まだ燃えている火の光を頼りに、はしごの口まで、はっていった。
そうして、そこから、短い白髪を逆さまにして、門の下をのぞき込んだ。
外には、ただ、黒洞々(こくとうとう)たる夜があるばかりである。
下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあった。
三年後芥川は最後の部分を全面的に書き直しました。
「下人の行方は、誰も知らない。」と…。
■先人たちの底力 知恵泉 細川幽斎
ピンチ連続の人生!その回避法とは?
森保一 加来耕三 三村里江
細川幽斎(藤孝)は足利義輝 足利義昭 織田信長 豊臣秀吉 徳川家康に就いた
知恵その一 危機に遭ったらよく考えて第三の道を探せ
足利義輝が殺された時、新しい将軍を立てて幕府を再興
15代将軍に足利義昭を立てることに成功
今は信長の後ろ盾あっての幕府ゆえ 細川の名前を捨てる
長岡姓に変える 将軍の命は助けて欲しいと懇願
改めて信長に仕えた 信長がまたまた暗殺される
明智光秀への手紙
「私は出家して信長様を弔(とむら)うことにしたので戦には協力できない」
中立 羽柴秀吉が向かっていることを把握
秀吉から領国安堵された
日本の歴史の進む方向性を全部言い当てている
冷静に客観的に自分を外して大局を考えられる余裕
知恵その二 本業以外の人脈を広げろ!いざというときの武器となる!
島津義久とは和歌の師弟関係で繋がっていた 幽斎が師匠
反抗的な歳久を消させた
和歌、連歌、茶の湯、囲碁、猿楽、料理に精通していた
朝廷公家社会に浸透していた
幽斎は古今伝授だった
古今和歌集の和歌の解釈の体系というのは天皇を中心とした
宮廷文化や王朝国家の秩序 これを象徴する体系を持っている
天皇制的な統合の体系 権力の体系と一体不可分の解釈の体系を持っている
春の山動けぬ鹿を食らう熊
過疎の春猿の襲撃後絶たず
春の山猿抱きつくや噛みつくや
■10min.ボックス古文・漢文 竹取物語
江戸時代に描かれた絵巻
いまはむかし、たけとりの翁といふものありけり。
野山にまじりて竹をとりつつ、よろづのことにつかひけり。
名をば、さぬきのみやつことなむいひける。
その竹の中に、もと光る竹なむ一すぢありける。
あやしがりて、寄りて見るに、筒の中光りたり。
それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。
かぐや姫の謎
この児、やしなふほどに、すくすくと大きになるまさる。
黄金のある竹を見つくることかさなりぬ。
かくて、翁やうやうゆたかになりゆく。
屋の内は暗き所なく光満ちたり。翁、心地悪しく苦しき時も
この子を見れば苦しきこともやみぬ。
かぐや姫の時代
「ゆるさじとす」とて、率ておはしまさむとするに、かぐや姫答へて奏す。
「おのが身は、この国に生れてはべらばこそ、使ひたまはめ、
いと率ておはしましがたくやはべらむ」と奏す。
帝「などかさあらむ。なほ率ておはしまさむ」御輿を寄せたまふに、
このかぐや姫、きと影になりぬ。
このかぐや姫、きと影になりぬ。
立て籠めたる所の戸、すなはちただあきにあきぬ。
格子どもも、人はなくしてあきぬ。嫗(おうな)抱きてゐたるかぐや姫、
外にいでぬ。えとどむもじければ、たださし仰ぎて泣きをり。
そのよしうけたまはりて、士(つわもの)どもあまた具して
山へのぼりけるよりなむ、その山を「ふじの山」とは名づける。
その煙、いまだ雲の中へ立ちのぼるとぞ、いひ伝へたる。
■10min.ボックス現代文 羅生門(芥川龍之介)
芥川龍之介(一九八二―一九二七)
ある日の暮方のことである。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
広い門の下には、この男のほかにだれもいない。
ただ、所々丹塗(にぬ)りのはげた、
大きな円(まる)柱に、きりぎりすが一匹とまっている。
羅生門が、朱雀大路(すざくおおじ)にある以上は、この男のほかにも、
雨やみをする市女笠(いちめがさ)や揉鳥帽子(もみえぼし)が、もうニ、三人は
ありそうなものである。それが、この男のほかにはだれもいない。
雨は、羅生門を包んで、遠くから、ざあっという音を集めてくる。
どうにもならないことを、どうにかするためには、手段を選んでいるいとまはない。
選んでいれば、築地(ついじ)の下か、道端の土の上で、飢え死にをするばかりである。
そうして、この門の上へ持ってきて、犬のように捨てられてしまうばかりである。
選ばないとすればー下人の考えは、何度も同じ道を低回したあげくに、
やつとこの局所へ逢着した。
朱雀大路の南端に建つ二階建ての建物が「羅生門」(現在は羅城門と呼ばれている)
その髪の毛が一本ずつ抜けるのに従って、
下人の心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。
そうして、それと同時に、
この老婆に対する激しい憎悪が、少しずつ動いてきた。
―いや、この老婆に対すると言っては、語弊があるかもしれない。
むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分ごとに強さを増してきたのである。
語り手と下人の距離
下人にとっては、この雨の夜に、
この羅生門の上で、死人の髪を抜くということが、
それだけですでに許すべからざる悪であった。
もちろん、下人は、さっきまで、自分が盗人になる気でいたこと
なぞは、とうに忘れているのである。
今日の空模様も少なからず、この平安朝の下人の
(サンチマンタリスム)Sentimentalismeに影響した。
しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、
その裸の体を起こしたのは、それから間もなくのことである。
老婆は、つぶやくような、うめくような声をたてながら、
まだ燃えている火の光を頼りに、はしごの口まで、はっていった。
そうして、そこから、短い白髪を逆さまにして、門の下をのぞき込んだ。
外には、ただ、黒洞々(こくとうとう)たる夜があるばかりである。
下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあった。
三年後芥川は最後の部分を全面的に書き直しました。
「下人の行方は、誰も知らない。」と…。
■先人たちの底力 知恵泉 細川幽斎
ピンチ連続の人生!その回避法とは?
森保一 加来耕三 三村里江
細川幽斎(藤孝)は足利義輝 足利義昭 織田信長 豊臣秀吉 徳川家康に就いた
知恵その一 危機に遭ったらよく考えて第三の道を探せ
足利義輝が殺された時、新しい将軍を立てて幕府を再興
15代将軍に足利義昭を立てることに成功
今は信長の後ろ盾あっての幕府ゆえ 細川の名前を捨てる
長岡姓に変える 将軍の命は助けて欲しいと懇願
改めて信長に仕えた 信長がまたまた暗殺される
明智光秀への手紙
「私は出家して信長様を弔(とむら)うことにしたので戦には協力できない」
中立 羽柴秀吉が向かっていることを把握
秀吉から領国安堵された
日本の歴史の進む方向性を全部言い当てている
冷静に客観的に自分を外して大局を考えられる余裕
知恵その二 本業以外の人脈を広げろ!いざというときの武器となる!
島津義久とは和歌の師弟関係で繋がっていた 幽斎が師匠
反抗的な歳久を消させた
和歌、連歌、茶の湯、囲碁、猿楽、料理に精通していた
朝廷公家社会に浸透していた
幽斎は古今伝授だった
古今和歌集の和歌の解釈の体系というのは天皇を中心とした
宮廷文化や王朝国家の秩序 これを象徴する体系を持っている
天皇制的な統合の体系 権力の体系と一体不可分の解釈の体系を持っている
よって和睦するよう御陽成天皇が動いた
なのに幽斎は拒否 幽斎の愛弟子である3人の公卿が到着して 応じた
幽斎は塚原卜伝、上泉伊勢守に剣術を学んだ
あえて正反対の「文」をやった よって朝廷の保護者となった
幽斎は人が好き 別な世界の人間と接する 視野が広がる
上手な生き方をしている
ニュートラル感 バランス感覚
知恵は伝承できる
大局を見て決断していく 大義を常に考えながら決断していく大切さ
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