黒北風(くろきた)や磯釣り渡船廃業へ
春空へノスリ余裕の大あくび
密厳寺独りゆらゆら藁ぼっち
研究者としての目線春の夢
■100分de名著
デュルケーム❝社会分業論❞(1)個人化/孤立化の時代に向き合う
芦田徹郎 伊集院光 阿部みちこ
❝分断社会❞❝個人と社会の繋がり方❞を130年前に考えたのが
社会学者 エミール・デュルケーム
本書をあらわす機縁となった問題は、
個人的人格と社会的連帯との関係の問題である。
諸個人が結合すると、一人ひとりの個人とも個人の
寄せ集めとも異なる、社会という一種独特の実在が形成される。
エミール・デュルケーム
社会的事実とは、その固定制に関わりなく個人に
外的拘束を及ぼしうる、あらゆる行為様式のことである。
さらに言えば、それは、その個人的な表現から独立した
それ自身の存在性をもつ、所与の社会に一般的に広まっている
あらゆる行為様式である。
訳 菊谷和宏「社会学的方法の基準」
社会的事実 個人の“外側”から訴えかけるもの
別の社会的事実 目に見えない社会的事実を考える
目に見えない社会的関係
ともあれ、社会現象は物であり、物のように取り扱われねばならない。
(中略)
実際、物とは観察に与えられるものすべて、観察に供される、
というよりむしろ観察に強制されるものすべてである。
現象を物のように取り扱うこと、それは科学の出発点をなす
史料(deta)としてそれらを取り扱うことにほかならない。
「社会学的方法の基準」
ダーウィン 1809~1882 進化論
コッホ 1843~1910 結核菌 コレラ菌
レントゲン キューリー夫人
社会現象はそれらを表象する意識主体から切り離して、
それ自体として考察されねばならない。
すなわち、外存する物として、外部から研究されねばならない。
「社会学的方法の基準」
社会を“物”として見る
本書をあらわす機縁となった問題は、
個人的人格と社会的連帯との関係の問題である。
というのは、この二つの動きは矛盾しているようにみえて、
実は並行してあいついでいるからである。
これがわれわれのみずからに提起した問題である。
訳 田原音和「社会分業論」
近代化 個人化/独立化
密厳寺独りゆらゆら藁ぼっち
研究者としての目線春の夢
■100分de名著
デュルケーム❝社会分業論❞(1)個人化/孤立化の時代に向き合う
芦田徹郎 伊集院光 阿部みちこ
❝分断社会❞❝個人と社会の繋がり方❞を130年前に考えたのが
社会学者 エミール・デュルケーム
本書をあらわす機縁となった問題は、
個人的人格と社会的連帯との関係の問題である。
諸個人が結合すると、一人ひとりの個人とも個人の
寄せ集めとも異なる、社会という一種独特の実在が形成される。
エミール・デュルケーム
社会的事実とは、その固定制に関わりなく個人に
外的拘束を及ぼしうる、あらゆる行為様式のことである。
さらに言えば、それは、その個人的な表現から独立した
それ自身の存在性をもつ、所与の社会に一般的に広まっている
あらゆる行為様式である。
訳 菊谷和宏「社会学的方法の基準」
社会的事実 個人の“外側”から訴えかけるもの
別の社会的事実 目に見えない社会的事実を考える
目に見えない社会的関係
ともあれ、社会現象は物であり、物のように取り扱われねばならない。
(中略)
実際、物とは観察に与えられるものすべて、観察に供される、
というよりむしろ観察に強制されるものすべてである。
現象を物のように取り扱うこと、それは科学の出発点をなす
史料(deta)としてそれらを取り扱うことにほかならない。
「社会学的方法の基準」
ダーウィン 1809~1882 進化論
コッホ 1843~1910 結核菌 コレラ菌
レントゲン キューリー夫人
社会現象はそれらを表象する意識主体から切り離して、
それ自体として考察されねばならない。
すなわち、外存する物として、外部から研究されねばならない。
「社会学的方法の基準」
社会を“物”として見る
本書をあらわす機縁となった問題は、
個人的人格と社会的連帯との関係の問題である。
というのは、この二つの動きは矛盾しているようにみえて、
実は並行してあいついでいるからである。
これがわれわれのみずからに提起した問題である。
訳 田原音和「社会分業論」
近代化 個人化/独立化
■100分de名著
デュルケーム❝社会分業論❞(2)自律的個人はこうして生まれた
芦田徹郎 伊集院光 阿部みちこ
抑止的法律 刑法 古い社会
復原的法律 民法 新しい社会
集合意識 個人の誕生
パリの人口 1800年 50万人 1880年 220万人
社会生活のたえざる膨張と、その反響としての個人意識の膨張とを
思うならば、この共同意識はことのほか微々たるものにすぎない。
なぜなら、個人意識の数はいよいよ多く、知性はますます豊かに、
その活動はいよいよ多様となる
われわれの社会は、歴史上かつて先例をみない速さと
広がりとをもって、環節的累計から解放されてきている。
訳 田原音和「社会分業論」
環節的累計=古い社会
自律的個人 自由になってしまった
それは、この人格が人為的に抑圧されたり、
押し込められたりしたからではない。
歴史のこの段階では、こうした個人的人格が存在しなかった
からという、まことに単純な理由に基づくのである。
自由とは共同体からの❝追放❞である
われわれは社会が個人に義務として尊敬せしめる自由をこそ、
正しい自由と理解する。
「社会分業論」
義務としての「自由」
❝価値の基準❞は個人が考え判断する
個人的反省が目覚めてくれば、きっと不一致が起きてくる。
個人的反省というものは人ごとにその質も量も違うものであるから、
この反省が生みだす結果もすべて人ごとに違うからである。
自由を上手くつかえない人はエゴイズム・アノミー状態に陥る
エゴイズム スタートが切れない
アノミー どこまでやっていいのか最後が見えない
■先人たちの底力 知恵泉
~近代文学・演劇を作ったおっちょこちょい~坪内逍遥
「タバコを吸う時などは片膝を立てて長キセルを持った手を
膝にのせる癖があったそれが昔の戯作者の格好そっくりだった」
長谷川如是閑「ある心の自叙伝」より
坪内逍遥が否定したのが読本にみられる作中人物の作り方
「南総里見八犬伝」仁義礼智忠信孝悌
マンガやアニメーションのキャラクター的な表現を否定
現実に生きている人間に置き換える 私たちが目の前にしている
現実を小説にして社会にどういう効果があるか
ということを考えていた
「くだらない」「西洋の小説でも訳した方がいい」と酷評が続いた
小説がそれまでの文体の形では書ききれない
文章の書き方の発想そのものを転換する必要があった
「僕の著述は浅薄なもの故二度三度と突込まれると奥行きがない
はじめて自分の考へ浅いのを知った」
坪内逍遥「二葉亭四迷」より
「君は円朝の落語を知っていよう
あの円朝の落語通りに書いてみたら何だ」
「余が言文一致の由来」より
千早振る神無月(かみなづき)も最早跡(もはやあと)二日の
余波と(なごり)となッた 二十八日の午後三時頃に神田見附の内より
うようよぞよぞよ沸出でて来るのは まず髭から書立てれば
口髭 頬髯 顎の鬚 狆(ちん)の口めいたの比斯馬克髭(びすまるくひげ)
篤と目を通して居られたが忽(たちまち)礑(はたと)膝を打ってこれでいい
そのままでいい とかう仰有る 少し気味悪かったが
いいと云ふのを怒る訳にもいかず 兎に角円朝ばりであるから
無論言文一致体にはなつている 自分は不服の点もないではなかったが
先生の仰有ることではあり兎も角もやて見た
「余が言文一致の由来」より
世に在る世に在らぬそれが疑問ぢゃ 御前御記念の賜り物をば
とうからお返し申そうと存じておりました お受け取り下されませ
いやわしは知らぬ 予は何も興(や)った覚えは無い
三百年前の詩的なシェークスピアの言葉は一種独特で日本人に
理解し難い 吾を忘れて面白く見物したかと聞かれたら
左様と断絃(だんげん)し得るものは 恐らく一人もいなかっただろう
夏目漱石 談
須磨子が演じるノラは抱月が乗り移ったかのようだ
明治44年(1911)5月「人形の家」上演(島村抱月 翻訳・演出)
早稲田大学 坪内博士記念演劇博物館 寄付
見たことのないものを演出するのは無
メンツがブロッカーになることが多い
己を捨てて若手の育成を選んだ
おっちょこちょいがいてくれないと物事は先に進まない
パイオニアだったけどパイオニア過ぎた
デュルケーム❝社会分業論❞(2)自律的個人はこうして生まれた
芦田徹郎 伊集院光 阿部みちこ
抑止的法律 刑法 古い社会
復原的法律 民法 新しい社会
集合意識 個人の誕生
パリの人口 1800年 50万人 1880年 220万人
社会生活のたえざる膨張と、その反響としての個人意識の膨張とを
思うならば、この共同意識はことのほか微々たるものにすぎない。
なぜなら、個人意識の数はいよいよ多く、知性はますます豊かに、
その活動はいよいよ多様となる
われわれの社会は、歴史上かつて先例をみない速さと
広がりとをもって、環節的累計から解放されてきている。
訳 田原音和「社会分業論」
環節的累計=古い社会
自律的個人 自由になってしまった
それは、この人格が人為的に抑圧されたり、
押し込められたりしたからではない。
歴史のこの段階では、こうした個人的人格が存在しなかった
からという、まことに単純な理由に基づくのである。
自由とは共同体からの❝追放❞である
われわれは社会が個人に義務として尊敬せしめる自由をこそ、
正しい自由と理解する。
「社会分業論」
義務としての「自由」
❝価値の基準❞は個人が考え判断する
個人的反省が目覚めてくれば、きっと不一致が起きてくる。
個人的反省というものは人ごとにその質も量も違うものであるから、
この反省が生みだす結果もすべて人ごとに違うからである。
自由を上手くつかえない人はエゴイズム・アノミー状態に陥る
エゴイズム スタートが切れない
アノミー どこまでやっていいのか最後が見えない
■先人たちの底力 知恵泉
~近代文学・演劇を作ったおっちょこちょい~坪内逍遥
「タバコを吸う時などは片膝を立てて長キセルを持った手を
膝にのせる癖があったそれが昔の戯作者の格好そっくりだった」
長谷川如是閑「ある心の自叙伝」より
坪内逍遥が否定したのが読本にみられる作中人物の作り方
「南総里見八犬伝」仁義礼智忠信孝悌
マンガやアニメーションのキャラクター的な表現を否定
現実に生きている人間に置き換える 私たちが目の前にしている
現実を小説にして社会にどういう効果があるか
ということを考えていた
「くだらない」「西洋の小説でも訳した方がいい」と酷評が続いた
小説がそれまでの文体の形では書ききれない
文章の書き方の発想そのものを転換する必要があった
「僕の著述は浅薄なもの故二度三度と突込まれると奥行きがない
はじめて自分の考へ浅いのを知った」
坪内逍遥「二葉亭四迷」より
「君は円朝の落語を知っていよう
あの円朝の落語通りに書いてみたら何だ」
「余が言文一致の由来」より
千早振る神無月(かみなづき)も最早跡(もはやあと)二日の
余波と(なごり)となッた 二十八日の午後三時頃に神田見附の内より
うようよぞよぞよ沸出でて来るのは まず髭から書立てれば
口髭 頬髯 顎の鬚 狆(ちん)の口めいたの比斯馬克髭(びすまるくひげ)
篤と目を通して居られたが忽(たちまち)礑(はたと)膝を打ってこれでいい
そのままでいい とかう仰有る 少し気味悪かったが
いいと云ふのを怒る訳にもいかず 兎に角円朝ばりであるから
無論言文一致体にはなつている 自分は不服の点もないではなかったが
先生の仰有ることではあり兎も角もやて見た
「余が言文一致の由来」より
世に在る世に在らぬそれが疑問ぢゃ 御前御記念の賜り物をば
とうからお返し申そうと存じておりました お受け取り下されませ
いやわしは知らぬ 予は何も興(や)った覚えは無い
三百年前の詩的なシェークスピアの言葉は一種独特で日本人に
理解し難い 吾を忘れて面白く見物したかと聞かれたら
左様と断絃(だんげん)し得るものは 恐らく一人もいなかっただろう
夏目漱石 談
須磨子が演じるノラは抱月が乗り移ったかのようだ
明治44年(1911)5月「人形の家」上演(島村抱月 翻訳・演出)
早稲田大学 坪内博士記念演劇博物館 寄付
見たことのないものを演出するのは無
メンツがブロッカーになることが多い
己を捨てて若手の育成を選んだ
おっちょこちょいがいてくれないと物事は先に進まない
パイオニアだったけどパイオニア過ぎた
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