2025年2月6日木曜日

偉人・敗北からの教訓 第77回 喜多川歌麿

春光や出過ぎた杭となりませう
弱点を強き武器へと春の夢
感動の塊抱き春を生く
市場価値の高き人へ春北斗
大寒のアトラス彗星捉えけり

■偉人・敗北からの教訓 
第77回「喜多川歌麿・江戸幕府の怒りを買った浮世絵師」

錦絵:江戸時代中期に確立された多色刷りの浮世絵版画
歌麿と蔦重が仕事を共にした期間 1783~1793のおよそ10年間
喜多川歌麿 1753年頃誕生

歌麿は幼いころ物事に細かかった   師匠 鳥山石燕の評
トンボやコオロギを手にのせて遊びに熱中していた   師匠 鳥山石燕の評

歌麿は30代近くまで代表作がなかった
人生を変える人との出会い それが蔦屋重三郎
吉原から新しい文化を生み出し出版界の風雲児
歌麿を重三郎は自宅に住まわせる
喜多川という姓は蔦屋重三郎の養子に入った家の姓
歌麿の才能を早くから評価していた
狂歌合わせに歌麿が絵を描く 狂歌絵本「画本虫撰」
彫りと刷りの技術を駆使した豪華本
自成一家 自ら一家をなす 絵師として独自の世界を築いた
老中 松平定信 寛政の改革 吉原は賑わいを失う
武士出身の狂歌師たちは引退 蔦重にも統制が及ぶ 財産半分を没収
歌麿空白の時 巴波川(うずまがわ)栃木県栃木市に過ごしていた(推定)
巴波川は江戸との水運で栄えていた
再びタッグを組む
美人大首絵は歌麿が初めてで 町娘を描いた
線のニュアンスだけで個性を描き出す 新しい美人画
自分自身の姿を入れた 得意の絶頂 人気に影を落とす出来事
町娘の名前を書く事を禁止
歌麿の美人画をこのまま売り続けることはできないかもしれない…
新たな才能との出会い 東洲斎写楽 役者の真実に迫る
しかし 10か月の活躍の後 写楽は消息を絶つ
歌麿は別の版元から絵を出すようになる これは歌麿の嫉妬
最下級の遊女たちの姿を描いた

喜多川歌麿 敗北の伏線
抜きん出た才能と自信を持っていた
優秀なパートナーが自身を支えていた

字が駄目ならと判じ絵を入れた 反骨の絵師 
人まね嫌い引き写しなし 誠に美人画は歌麿が最高でございます
私の活きた筆にかかればなんとなく描いても最高の美人になる
従って私の筆料は鼻のように高い
判じ絵も禁止されると女性が働く日常を描く
衝撃的な知らせ 蔦屋重三郎48歳で死去
歌麿が蔦重から離れて3年目のことだった 盟友の死
歌麿の筆はそれでも鈍ることはなかった
ヌード同様の海女の絵を出版 版元の印がない
生涯最大の苦境 手錠50日 歌麿は気力を著しく失った
歌麿「わたしが自白したため『太閤記』が絶版になり
   版元には気の毒なことをした」
もし蔦重が生きていたら…。蔦重あっての歌麿だった

伊藤潤の見解ポイント
歌麿は❝醍醐の花見❞という題材に魅せられた
明暦の大火 明暦3年(1673)江戸の大半を焼いた大火災

喜多川歌麿 敗北の瞬間
自分の力を過信して社会情勢を甘く見積もっていた
状況を無視して自分がやりたいことを押し通した

敗北がもたらしたもの~最晩年の意地~
手錠50日の二年後 喜多川歌麿享年54 この世を去ります
近年 歌麿は最晩年にも絵を描いていたが判明
栃木で描いたという説も 
栃木市立美術館に3つの肉筆画大作「雪月花」が…。
「品川の月」(高精細複製画)「吉原の花」(高精細複製画)
「深川の雪」(高精細複製画)

栃木市立美術館 学芸員 形井杏奈
2012年に再発行された❝最晩年の作❞
歌麿の人生やいろいろな思いまで感じ取ることができる
細かい部分を描き込んでいたりとか手を抜かない
その人の一生懸命さが私は感じられる

絵師としてのプライドを捨てなかった
明治時代歌麿作品は欧米に持ち出された
ジャポニズムとして一大ブームを起こした

喜多川歌麿の敗北から学ぶ教訓
世事に疎いと墓穴を掘る

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