バブル世代60代へ寒に入る
冬菫跪くたびに痣こさえ
寒きびし自己中心の消Time
面白そうなフェイクに乗って冬一番
めくるめく知らない世界残る虫
■ザ・プロファイラー 女性の可能性を切りひらけ!教育者 津田梅子
姉は家から遠く離れたところに行きたくなかったのです
私だって両親のもとを離れたくなかったですが
それでも私はアメリカに行くことを望んだのです
幼少期の梅子の作文
女性の人生には我慢しなければならないことがいろいろとあります
アメリカでも私は男性だったらよかったのにと思いました
日本ではなおさらです!
ランマン夫人宛の手紙
何よりも必要なのは健全な教育を受けることができる女子のための学校
まだ計画は空想の段階でもし私たちにそのようなことができれば
それは壮大な仕事となるでしょう
ランマン夫人宛の手紙
日本は結婚しないと身動きがとれない社会
既婚女性こそが成し遂げられることもある
アリス・ベーコン宛の手紙
父は結婚について何も言わないので
私も年がいっても全く心配していません
通常の人生を歩むなら十分な教育は
すでに受けていると言えるかもしれませんが
私はもっと教育を受けたいのです
自分の仕事に十分に準備をしたいですし
日本には能力や力量を持った人々が必要なのです
ランマン夫人宛の手紙
一つの細胞に宿る生命は奇跡以上の奇跡
吉川利一「津田梅子」
女子は将来夫に仕え家をおさめるのであるから
程度の高い学問的な訓練に重きを置くべきではない
化学理学などの科目は華族の女子にふさわしくなく
学ぶべきではない
明治天皇「御親喩」
梅子はいかめしい抑圧は日本に置いてきていた
友人たちと自然な自分で自由に明るく行動していた
アナ・ハーツホン覚書
普通の日本女性では容易に得られない
機会があったからこそ充足感に包まれていた
そう思うと同じ機会を日本の女性に与え喜びを
分かち合うのが私の義務ではないか
吉川利一「津田梅子」
女性教育に関心がある人々への講演会を開催
彼女はこういう仕事に必要な資質をすべて兼ね備えている
鋭い眼力と想像力そして科学的な正確さへの感情的なまでの愛を
アナ・ハーツホン覚書
梅子を高評価
大学に残って研究を続けるよう提案
梅子にとって唯一の近視眼的な選択だった
アナ・ハーツホン覚書
少数ながら目覚めた女性はすでに高等教育を望んでいる
否!新しい日本が教養ある女性を求めている
吉川利一「津田梅子」
私は自由になりました そして
後戻りする船をすべて燃やしました
友人宛の手紙
英語の専門家になろうと骨折るにつけても
完(まっ)たき婦人になるには必要な他の事象を
ゆるがせにしてはなりません
完(まっ)たき婦人 即ちall-round women
となるよう心掛けねばなりません
all-round womenとは英語が得意というだけではなく
さまざまな分野を学ぶことができもっと解き放たれた
広い視野をもって判断ができるような人になるということ
教育の理想
真の教育をするには少人数に限ると思います
吉川利一「津田梅子」
資金繰りで苦しんだ
そのため支援を求める手紙を書き続けた
1か月に300通出したこともあったという
そんな時友人アナ・ハーツホン アリス・ベーコンが
来日して無報酬で授業を受け持ってくれた
そして瓜生(旧姓 永井)繁子は職員
大山(旧姓 山川)捨松は顧問として梅子を支えた
1913(大正2)年 卒業式の記録
少数の人々に限るのでなく家庭という領域さえ超えて
気高い志ひたむきな熱心さ広く共感できる力を
多くの人々にささげることができるなら
どんなに弱い我々でも人生を実りあるものにできるでしょう
1929(昭和4)年8月16日 津田梅子死去(64歳)
生涯独身だった
闘病生活の中で遺した言葉
「この永遠の世界の中で
私自身や私の仕事は
どんなに小さいものか
自覚しなければならない
一粒の種は
砕かれ地に落ち
新たな草木が生える
ということを」
津田梅子の日記より
梅子の蒔いた一粒の種
日本人女性のための米国奨学金制度が創立された
1976(昭和51)年までに25人の留学生を送り出した
その中には
同志社女子大学 校長 松田道
恵泉女学園 創立者 河井道 もいた
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