シン・古典脱丸暗記六連星(むつらぼし)
冬の空売られた喧嘩買うノスリ
はじめての景色ぼんやり冬座敷
凍る朝ご機嫌斜めボールペン
十二月多様な色のそこかしこ
■ザ・プロファイラー
書き尽くせぬ思い「源氏物語」作者 紫式部
父の嘆き
口惜しう 男子にて 「紫式部日記」
残念ながらお前が息子でないのが私の不運だよ
姉と私と間違えたのか❓それとも遊びだったのか❓
男を責めた式部の歌
おぼつかな それかあらぬか あけぐれの そらおぼれする 朝顔の花
「紫式部集」
望郷の念を募らせて詠んだ歌
ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に 今日やまがえる
「紫式部集」
春なれど 白嶺のみゆき いやつもり 解くべきほどの いつとなきかな
「紫式部集」
春になっても白い嶺はいつ溶けるか解らないように
私も心もいつ溶けるか解らないわ
998(長徳4)年26歳ころ 藤原宣孝と結婚 一夫多妻制で通い婚
他の女性への嫉妬から下記の歌を詠んだ
おほかたの秋のあわれを思ひやれ月に心はあくがれぬとも
晩秋の頃あなたに飽きられている私の悲しみを思ってください
あなたの心が月のように美し女性に奪われているとしても
「紫式部集」
1001(長保3)年 29歳ころ
藤原宣孝の死
寂しいもの思いの中
当てのない行く先を考えては
将来への心細い思いを強めるばかり
そこで取りとめのないものではあるけれど
はかなき物語を書いて試行錯誤しては
慰み事に寂しさを紛らわせていた
(紫式部日記)
すきものと(浮気者) 名にし立てれば 見る人の をらで過ぐるは あらじとぞ思ふ
紫式部日記
これに対して式部の返した歌
人にまだ をられぬものを 誰かこの すきものぞとは 口ならしけむ
「紫式部集」
誰でも身の上として
多少誇張などはあるにしても
この世を生きる人々の
見ているだけでは満足できず
後の世にも言い伝えたいと
心にしまっておけず語ったものが
物語の始まりなのです
第二十五帖「蛍」
この作者は日本の歴史書を
よく読み込み
まことに学識があるようだ
1008(寛弘5)年 式部36歳ころ
彰子が皇子を出産
皇子の祖父となった道長の喜びようを日記に記している
ある時など 皇子が
道長様にひっかけてしまった
すると道長様は「ああ皇子のおしっこにぬれるとはうれしいことよ」
そう言ってお喜びになっていた
「紫式部日記」
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思えへば
「小右記」
全てを思うがままになった道長は絶対的な権力者となった
1031(長和2)年 41歳ころ
一条天皇が亡くなり三条天皇と道長が対立
彰子のそばに仕え続けた
当時の藤原一族が記した日記「小右記」に記されている
「この女を介して前々も雑事を計上させていた」
この一文から式部は60代70代まで生きた可能性がある
又式部は晩年、出家したという説もある
歳もまた出家してもよい年頃になってきました
罪深い私のような人間が必ずしも出家の志が
かなうわけではないでしょう
としもはた よきほどになりもてまかる
それ罪ふかき人
「紫式部日記」
浮舟はいいよる二人の男性の間で悩んだうえ
出家を選び幕を閉じる
一人娘の賢子も才能あふれる女性だった
そして宮中に仕えると後冷泉天皇の乳母(めのと)となる
賢子のことが書かれたのが「栄花物語」
後冷泉天皇の時代は文化的な時代だった
それは紫式部の娘賢子の教育のおかげである
この賢子の成功には紫式部の書いた
「紫式部日記」の一部が関わっているという
式部が娘のために書いたのが「紫式部日記」という説もある
「源氏物語」は千年を超えて読み継がれた
写本によって読み継がれた
秀吉自ら書き起こした解説書「源氏物語のおこり」
「源氏物語」から宮中を学ぼうとした
江戸時代に大ヒットした「偐紫(にせむらさき)田舎源氏」
20世紀に入るとイギリスの東洋学者アーサー・ウイリーの翻訳を
きっかけに日本を飛び出し世界中で翻訳されるようになった
近年では2019年に発見された写本「若紫」が発見され
話題となった
これからもこの物語は人々を魅了し続けていく
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