外相はお払い箱へ落(おち)かいず
リハビリの「なつ」健やかに過ごす秋
見守られ野生復帰へ「なつ」の秋
百羽を超えた赤腹鷹や秋渡る
跋扈するクリックベイトうすら寒
■木村多江の、いまさらですが… 蔦重と写楽が描いた歌舞伎の魂
東洲斎写楽 10か月の活動 謎の絵師
徳島藩の斎藤十郎兵衛だったという説が有力
描かせたのが江戸のメディア王 蔦屋重三郎
売り手よし 借り手よし 世間よし ⇨ 三方よし
役者絵
二大悪所 吉原 芝居町
勝川春朗(のちの葛飾北斎)にも役者絵を描かせた
1794年正月 強力なライバル出現 歌川豊国 役者舞台之姿絵 大評判
1794年五月 新人絵師東洲斎写楽と名乗らせ大首絵を描かせた
雲母摺(きらずり) 28作同時出版
センセーショナルのデビューをさせた蔦重
歌麿で吉原を写楽で歌舞伎を盛り上げようとした
歌舞伎が盛り上がると芝居町全体が盛り上がる
カブキ者の血が騒いだのでは?
歌舞伎の語源は「傾き」とされ真っすぐではない や
正しい道から外れた などの意味を含み 世間の権威や常識から
反するものを「カブキ者」と呼んだ
1603年には「カブキ踊り」が現れる
「出雲阿国」が京都で踊った時されている 屏風絵にも描かれている
狂言師の男性と遊女 で栄華を極める
遊女歌舞伎 三味線が加わり華やかに
1629年 女役者による歌舞伎を禁止 若衆歌舞伎が現れた
これも禁止され 成人男性のみが演じる「野郎歌舞伎」
演劇性を重視する「江戸歌舞伎」へと繋がっていった
元禄期:1688~1704年 市川團十郎が登場 荒事 スーパーヒーロー
和事 上方から登場
所作事 舞踊劇 鷺娘などが作られた
江戸三座 中村座・一村座・森田座の三座が公認を受けていた
四代目 松本幸四郎は左利きだったのか?
大田南畝 狂言師 文人であり幕府の役人 天明の狂歌ブームを作った一人
蔦屋重三郎との親交も深い 「浮世絵類考」にて写楽を評価
役者をリアルに描きすぎて ファンからの評判は悪かった
江戸の文化人サークルで似顔を描いていて噂になっていた写楽
そこに蔦重が目を付けた
写楽が描いた芝居は成功に終わった
写楽 第二期 江戸三座 三十八作品が確認されている
口上 自 是 二 番 目 新 板 似 顔 奉 入 御 覧 候
意気込み書きされている
第二期は全身図 雲母摺が現存している
エドゥアール・マネ「笛を吹く少年」にも影響を与えた
助六寿司 幕間に食べられた
名前の由来は市川團十郎の当たり役「助六」が名前の由来
相手役 ヒロインの「揚巻」にかけて「揚」がおいなりさん
「巻」が巻き寿司となった
「揚巻」は絶世の美女で江戸のファッションリーダー的な役割もあった
歌舞伎はエンターテインメントの中心だった
写楽 第三期 顔見世 勝負 五十八作品が確認されている
背景の描写 勝川派 この時期から東洲斎が消え「冩楽」と名乗っている
写楽 第四期 影武者の存在
三期と四期は現存数が少ない
写楽自身も出版界から姿を消した
近年では写楽は徳島藩のお抱え能役者 斎藤十郎兵衛だという説が有力
ドイツの研究家ユリウス・クルトが1910年に写楽の評伝
「SHARAKU」を発表してヨーロッパに写楽の名が広まった
歌舞伎はどのようにして現代まで伝えられてきたのか?
髷を落とした時から新作歌舞伎を次から次へと作り始めた
今なお可能性を探っている 傾く(かぶく)精神が歌舞伎役者の生き方
歌舞伎は古典を継承しつつ 時代に合わせてアップデートしてきた
これからも…
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