谷川(俊太郎)忌パウル・クレーに寄り添わん
ことばを遊び心伝えた俊太郎
小学生を夢中にさせた俊太郎
愛はなに色?女にモテた俊太郎
北吹くや谷川の声聞きたくて
■新美の巨人たち【蕗谷紅児「花嫁」はなぜ泣いている】
きんらんどんすの 帯しめながら
花嫁御寮は なぜ泣くのだろ
「花嫁人形」詩 蕗谷紅児
蕗谷紅児 明治31年(1898)新潟生まれ
両親の駆け落ち先で生まれる
父十九歳 母十五歳
母の死 漂浪少年 漂浪生活
紅児12歳 丁稚奉公で家計を支える
15歳の時上京 尾竹竹坡(ちくは)の内弟子に
17歳で尾竹竹坡の元を離れ帰郷
映画館の絵看板を描く
大正6年(1917)18歳 樺太で旅絵師として漂浪
僕は、自分の一生の運命の糸を余りに
早くたぐり過ぎはしなかったか(略)
今は其の漂浪生活に身を置いているが
此の先の自分を考えると世の中が恐ろしくなる
大正9年(1920)本郷の菊富士ホテル訪問
抒情が誕生 竹久夢二
1968年「私の昭和史」よりインタビュー 蕗谷紅児当時七十歳
夢二さんの上手さにどっちかかというと影響されそうでね
しかしあの頃の挿絵に限らず全て人真似ってこと
非常に嫌った時代でしたね 誰かに似てる 読者が
第一承知しなかった その後の事ですよ
一人が流行ると同じ絵がたくさん出たのは あの時代はね
読者が承知しなかった 偽物だ イミテーションだって
夢二さんと僕がもし似たら偽物と言われるんで
そう言われたくなかったから 画風ははっきりと…
似せまいとしました
浮世絵の美人画 絵師 鈴木春信
鈴木春信は歌麿ほど妖艶ではなく 中性的で物憂げな表情
夢うつつな感じが少女にウケる (鈴木春信の)影響を受けている
詩「花嫁人形」直筆原稿 大正13年(1924)
きんらんどんすの 帯しめながら
花嫁御寮は なぜ泣くのだろ
数多くの詩画集を残している
枯れた草葉も 野に、泣き、伏すよ…
ひとり をとめも 野に泣き、伏すよ…
「秋の唄」
あゝなやましい けふ きのふ なぜか なみだの あときえず
こころの うつろが 満ちませぬ
「なやみ」
そういつもいつも 少女たちは 泣いている
ちょうど 目の下 泣きぼくろ ここは涙の 通りみち
妾(わたし)は一生 泣きぼくろ
これは あたしの 泣きぼくろ おでこのてっぺん 泣きぼくろ
わたしは おでこが 悲しいの
「泣きぼくろ」
大正14年(1925)フランス・パリ 蕗谷紅児26歳
家族のため 4年後 東京の挿絵画家に戻る
少女だった母(エツ)へ
遺稿
あんなに弱々しかった母に三人も男の子を生ませた父がうらめしかった
父がうらめしかった
蕗谷紅児 七十歳
「花嫁」昭和43年(1968)彩色・絹本
(モデルは母 母のやるせなさとはかなさを託して
万感を込めた母への思いが綴られています)
死んで地下から私を見守っていてくれる亡母が
私と十四しか歳が違わなかったので、母が若すぎたので、
私にあんな甘い絵を描かせたのかも知れない。
母は、わかくて 美しい人だったから 私はこの母に
いつも甘ったれてばかりいたから
(紅児の画集より)
蕗谷紅児 享年80
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