2026年2月1日日曜日

知恵泉 織田有楽斎

寒波来る十郎兵衛こそ写楽です

しばれるやMTC(エゴマオイルも)過熱不可

冬深しベスト尽くして諦めず

(鳥インフルエンザ)しづり雪哺乳類をも感染(うつり)をり

(鳥インフルエンザ)冬ざるる絶滅危惧種へ迫る危機

 

■先人たちの底力知恵泉 

信長の弟織田有楽斎(うらくさい) 逃げるが❝価値❞そして静寂の境地へ

有名な茶人 茶の湯のスキルがあってのこそ

戦国三英傑に仕えた

千利休も認める茶の名手だった 血筋と茶の湯で戦国を泳ぎ切った

 

ゲスト 今村翔吾(時代小説家) 

2022年「塞王の楯」第166回直木賞受賞

元ダンスインストラクター 

 

天野忠幸(天理大学教授)

有楽斎は❝権力者じゃない織田信長❞

 

有楽斎は字が上手かった 文化人としては超有名人 

目立った活躍はほぼない 今村

 

信長とは13歳離れた弟 家臣も領地も持っていない

信長からも期待されいなかった存在 天野

 

信忠が討死していなければ秀吉の代わりに信忠が明智光秀を

討った可能性もありますから そうなりますと次の豊臣政権

さらには徳川政権というのは考えられません やっぱり

信忠としてはお父さんが危ないというねこのまま自分が逃げると

後世に何を言われるか分からない 武将としてのプライドというか

矜持があったのであえて危ないところに身を置くという

選択をしたのでしょう

小和田哲男

 

本能寺の変から無事生きて帰った織田メンバー

 

織田有楽斎

天分16(1547) 信長より13歳年下

 

有楽斎の場合は確かな資料の「信長公記」です 太田牛一の書いた

天正91581年までは表に出てこない 信長の弟なんだけれど

存在なき存在 信長を父親代わりみたいな感じで見ています

完全に信長に育てられたって感じです 

小和田哲男

 

信忠の後見役となる

大阪本願寺合戦 武田勝頼との戦い ともに出陣

天正9年京都御馬揃え では6番目の序列

本能寺の変で一変 

本能寺より2㎞離れた妙覚寺に信忠と有楽斎は一緒待っていた

 

知恵その一 負け戦は戦うな 別の道が必ずある!

信忠は切腹 有楽斎は一人逃げる道を選択

 

当時武将たちの間でよく言われていた言葉は

「戦にて負け候らえば自害に及ぶこと侍の本用に候」 

つまり負けたならば潔く腹を切るというのが当時の武士道というか

武士の考え方で信忠も覚悟を決めたと思いますが明智軍の方で

有楽斎の方はあまりよく顔を知らなくて雑兵に紛れて一緒に

逃げちゃったので逃げ延びることができた お兄さんの信長が

それに近いことをやっている 例の「金ヶ崎の退き口」ということで

ボロボロの体になって京都に逃げ戻って生きています そういったのを

見ている有楽斎ですから死ぬのが美徳ではないとみっともない

生き方をしても生き延びることが次につながるという思いを持って

生きた武将だと私は見ています

小和田哲男

 

このことで「逃げの有楽」というニックネームをつけられた

有楽斎は命を優先 

 

小牧・長久手の戦い 羽柴秀吉が織田信雄を支える振りをしながら

天下をかすめ取ろうとしたことを知った信雄はと徳川家康を仲間に

引き入れ戦う決意をした 

天正12(1584)有楽斎は共に戦うことになったのですが 

「これは負け戦じゃ生き残る道を探さなければ」と、

秀吉に早くに和平を打診していたとか繰り返し和平工作を行った 

信雄・家康軍は善戦するが戦をやめるようアドバイス!

「死んでしまっては何も残りませんぞ」と

子どもを人質に出す この選択が正しかったことは歴史が認めています

秀吉 1598年没 有楽斎 1622年没 信雄 1630年没

 

最大にして最後の和平工作 大阪の陣

家康方 32000石 関ヶ原の戦いで手柄を立てていた

 

大阪城にいる淀殿は自分の姪ですから自分の身内の一人として何とか守りたい

家康との関係を順調に持っていこうとする思いはあった 

小和田哲男

 

慶長19(1614) 大阪冬の陣 勃発

豊臣方に不利な条件で講和 これ以降政治の世界に顔を出すことはなかった

 

織田源五(有楽斎)は人ではないよ □残後党

信長に似てたと言えば似てた 今村

 

自分ひとりの決断で動きまわることができる 天野

逃げる途中で殺されると最悪 天野

 

自分ができる最善策が❝逃げる❞だった 今村

 

慶長20(1615)

有楽斎は茶の湯に没頭 茶釜・茶杓

豊臣秀吉 徳川家康とも茶を通して交流

豊臣秀頼(秀吉の後継者) 徳川秀忠(家康の後継者)など 

若い世代のリーダーとも語り合うこともあった

強力な人脈があればこそ「交渉役」に当たれた

 

引退後は茶にどっぷりつかった老後を過ごした

建仁寺塔頭(たっちゅう) 正伝永現院

人生最後の4年間を過ごした寺

有楽斎 晩年の境地とは 

正伝永現院住職 茶道有楽流正伝会 家元 真神啓仁

「鳴かぬなら生きよそのままホトトギス」

もっと本来人間自由であるべきや というのが僕の有楽斎のイメージ

相手に何も極力求めないような「あなたはそのままでいいんですよ」

というイメージを持って その句をみんなで考えてつけてみました

 

知恵その二 「鳴かぬなら生きよそのままホトトギス」

あなたはそのままでいいんですよ

 

茶室 如庵(復元)

客の緊張をほぐし 心を落ち着かせる 

二畳半台目の空間 「二畳半 一畳半は 客を苦しめるに似たり」有楽斎

鱗板(一層の余裕を空間に持たせている)

窓が多い 隙間を開けて竹を打ち付けた窓は有楽窓と呼ばれている

程よい明るさと風が通るよう設計されています 

古い暦を補強のために土壁に張った 独特の侘び感を与えています

❝それ茶の湯は客をもてなす道理を本意(ほい)とする也❞有楽斎

「有楽流」として受け継がれた

毎年 法要が営まれている

20251113日 執り行われました

 

有楽斎子孫・医師 織田正道氏

1113日だけはやっぱりそこに タイムスリップするような感じ

ここにくると有楽とのつながりだったりこの静けさだったり

そういうものを感じる面はあります 決して僕は茶道をやっている

わけではなくて何でもないんですけど (有楽斎は)権力とか力では

得られない真の豊かさを茶の湯に見出したのではないかなと思います

 

元和7(1622)織田有楽斎 逝去

75歳でこの世を去りました

 

400年を過ぎた今も受け継がれています

 

拡大の先にも宇宙はある お茶の世界に寄り切ったところの宇宙

信長が外に膨張していくエネルギーだとすれば

有楽斎の場合は内側に内側に… それが茶だったのかな それが情熱であり

好きである心だったのかな… 似た者同士 向かうエネルギーの先が違うだけ

やはり織田なのではないか やはり織田の同じ血が流れている

テーマとは有楽斎が面白いと思ったものを選んだり 

彼の楽しみで作ったものが多い

今村

織田有楽斎の竹茶杓 銘 落葉

有楽茶所銘釜

 

世俗の色々なしがらみから解き放たれる空間があの茶室の中

 

村田珠光(14231502)「わび茶」の創始者とされる人物

利休より先輩の頃から

マウント取るのはダサいと言われるようになった

なので言えなくなった

みんな平等という立場でお茶を嗜む 今村

 

この時代の「自由」に当てはまる言葉は現代にはない

有楽斎は生き方で❝自由❞を体現した

有楽斎は織田ブランドを頼っていない

地震で織田ブランドを作ってしまった 今村

 

自分が生きていける術をどういう風に見出すか 天野

多様性の象徴ではなかったのか 司会者

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