レベル下ぐ好かれなくとも帰り花
小春空素泊まり宿が駅前へ
池田町ニホンカモシカ出現す
茶の花やひっそりとかつ凛と咲く
蒼き空色無き街の雪化粧
■あの人に会いたい 藤村志保(俳優)
2025(令和7)年 86歳没
仕事ごとに違う人物になるわけですね
もう何百とおりの人間になったかわからない
やはり俳優としての仕事はとても魅力的だと思います
みつばちマーヤなんかやりましてね 地声が大きい
大きな会場でも声がビーンと通るんです
ですから小さいときも学芸会でヒロインになったりしました
19歳で日本舞踊の名取に
アメリカ留学を決意
私のたった一人の兄が1か月での闘病生活で亡くなってしまった
それで私のアメリカ行きの夢がどうしても行けない状態になりまして
私としては兄を失った悲しみと自分の1つの青春をかけた夢が
壊れたという 何とも気持ちの中でおさまらない 何かに
ぶつけたいっていうことになりまして
1961(昭和36)年 大映京都撮影所演技研究所へ
翌年、市川崑監督作品「破壊」でデビュー
市川雷蔵の恋人役でした
15メートルぐらい奥から走ってきて
カメラ1メートルぐらい前で止まって
見つけて「あ」って言ってから 恥ずかしそうに去るまでの
何秒 何十秒までいきますかね ほんの短い(シーン)ですけれど
リハーサル リハーサルで とうとう監督さんが何十回かの
リハーサルのうち「〇回目がいい」とおっしゃったんです
でも私 自分で全然わかりません そうしましたら雷蔵さんが
「新人の子に〇回目がいいなんて無理だよ 監督さん」って
おっしゃってくださいまして
昭和40年
(島崎)藤村の作品でしたのでね 藤村に読ませていただいて
役名の志保をいただいて 藤村志保ってなったんです
ちょうどその頃はテレビに出てはいけないと言われていたのね
私たち映画の人は でもNHKの方が一生懸命粘ってくださって
「太閤記」に出られるようになりました
映画は1カメでしょ カメラが1台で でもテレビに来たら
こういうふうにスタジオの中に今日も4台あって あっという間に
ワンシーンが撮れてしまう カットを割らない それから
あらゆるジャンルの俳優さんが集まっている 映画は大映でしたら
大映専属(俳優だけ)ですから なかなか共演できない よその方と
ご一緒したり とっても刺激的でした
大河ドラマ「太平記」1991年 では小道具への拘りも見せました
小道具の地蔵菩薩
(清子は)地蔵信仰ということを尊氏に教えて戦乱の時代は
救いがなければいけないんだみたいな 精神的なものを
伝えていく役だったものですから 尊氏が念持仏として持っていた
お地蔵さんが鎌倉の宝戒寺というお寺にあるんです でも 本物を
お借りしてくるわけにはいきません それで私が彫刻家の方に
模刻していただいた原寸と同じに
てるてる家族 2003年
練習のときは人肌にいちいち練習したら大変です こういうパフね
自分用の鍼管と鍼を置いて常にね 大阪へ行く新幹線の中で
ちょちょちょんちょん 練習しながら新幹線に乗っていたの
舞台「北越誌」2006年
私の目の角度というか位置ね お人形さんと本当に2人が
話をしているように 見えるかどうかが 一番難しい所ね
藤村志保著「脳死をこえて」昭和60年
兄の死とか それから自分の病気とかね そういう事が重なって
生きることのありがたさというか 当たり前のことなんですけど
1人でも多くの方にもしものことがあったら お互いに苦しんでいる
人を助け合いましょうっていう 気持ちを皆さんに
持っていただけるように
さらに絵本の読み聞かせにも挑戦、熱心に取り組まれました
出会いと言うことが大事なのね 新しい自分 気づかなかった面が
出てくるみたいな楽しさがありますから いつもいつも自分だけの
発想の中で 「私のできるのはこういう役柄」「これはできない」
とか言っていないでね 全く新しい血というか 方たちと
出会うことで 1歩も2歩も前へ進めるとしたら その出会いは
すばらしいし そういうお仕事がしたいな
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