つるぎ町「折目邸遊懐(おりめていゆかい)」
糸巻の家紋背負いて秋を生く
床の間へ虎斑(とらふ)現る秋日和
扇置く半田漆器や今はもう
素麵と漆器繋がる半田かな(無季句)
暖かな漆器の中の冷し素麵
■あの人に会いたい 篠田正浩
2025(令和7)年 94歳没
自分が人間として人を演出するなんていうことはね
すごくおこがましいという 恐怖心もありますし
罪悪感もあるんですね いちばんあるのは絶望感ですね
本当に絶望すると ここからはい上がって
俺は何が要るんだというね その絶望体験を抱えて仕事を始める
黒澤明監督の「姿三四郎」だった
こんなに面白い世界があるのかってびっくりしましたね
私にとって 映画の世界っていうのは
ものすごく魅力的に映りました
祖国防衛のため 天皇陛下の神聖を守るため
死ななきゃいけないと教わった 皇国少年ですからね
それが8月15日を境にして 天皇陛下自ら「私は人間である」と
「神話や伝説に書かれてある存在ではない」と
おっしゃったときにはね 自分が生きていく信条とかね
自分が信じなきゃならない信仰とか宗教とか
そういうものが全部 カスになったんですね
1949年 早稲田大学に入学
競争部に入り 箱根駅伝に出場
アメリカの自動車がはしってるんですよ 占領軍
あるとき 乗っているアメリカ人の女の人の口紅の色と
マニキュアの色が同じだなって言うことに気づいて
あれ 色が違ったらおかしいだろうなと 止まっているものより
動く そういうものに対して 人間の視線というものが
しっかりキャッチする シャッターを切るんだね その都度
映画というのはこういう世界だなと思った
1953年 松竹大船撮影所へ
「松竹ヌーベル・バーグ」の旗手として一躍注目を浴びる存在に
やっぱり映画監督としてね 自分の奥さんが僕以外の監督の仕事に
行くときに 最高のコンディションで 亭主の影なんか
引きずっていたら 相手の監督に申し訳ないと僕は思うんです
絶対家庭で消耗してもらいたくない 家事とかやらせなかったですね
結婚する時にそれは二人で決めた事ですから
1967(昭和42)年 独立プロダクションを設立
基本的には誰にも僕はコントロールされたくないと思ったわけですよ
目の前の時代の風俗・流行の思想というものにとらわれないで
自分がいちばん気に入ったものを探してみようと それが意外に
僕にとっては 日本の伝統というものだった あるとき
歌舞伎を見ましたら この世に生きられない男女が 道行きして
死の世界に行くと 心中するという芝居を見たときに ものすごく
興奮したんですね これは日本回帰っていうよりも日本探検だね
自由を得たくて独立したんですよね ところがお金がないと
なかなか(俳優が)つかまらない 今だとテレビ局がね いい役者は
全部抑えちゃってね マネージャーにけんもほろろに断られる
「心中天網島」(1969年)
黒子が登場することによって まるで黒子が 運命の力を
支配しているような すごい存在に見えてきたわけです
本当にリアルにやったって リアルなものは出てこない
うそ任せにやったって それはうそにしかならない
すべての真実は 虚と実の皮膜の間にある
「瀬戸鬱少年野球団」(1984年)
子どもたちにあの時代のことを どうやって教育したのか
みんなに聞かれるんです 最初に木下惠介監督の名作の
「二十四の瞳」を見せたんですよ 全然わからない
「なんであんなボロっちいの着ているんだ」って
これには弱ったなと思ったんですよね それで野球をやってみようと
自分と自分以外の人間が キャッチボールだけで相手の気持ちがわかる
ということがわかってくると 脚本を読んでも相手の気持ちがわかる
想像力がつくんじゃないかと
「鑓の権三(やりのごんんざ)」(1986年)
ベルリン国際映画祭にて金熊賞受賞
最後の作品になったのは
「スパイ・ゾルゲ」(2003年)
二・二六事件の青年将校のクーデター
それとゾルゲ事件 そしてパールハーバー(真珠湾攻撃)
この3つが私の少年期のビッグ3 ゾルゲが全部見て関係していた
これをどうしても復元して 私の昭和を自分の手に握ってみたかった
自分のものにしたかったんですね それまで人に語られていたのを
自分でどうやって語るのかと
構想10年 製作費20億円をかけた超大作を作り上げ
2003年 監督を引退
早稲田大学で後進の育成に尽力
絶望することは たやすいこと 希望を持つことはもっと困難だけど
やっぱり人間はそれに向かって 生きていく以外に後退は許されない
歴史を逆回することはできない 前に向かって新しい歴史を刻むしかない
映画監督 篠田正浩 1931-2025
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