2025年6月11日水曜日

やなせたかし氏の母&吉田ルイ子

年重ね腰椎歪み走馬灯

売れ残り焦り早朝夏の朝

万倍日報せる旗や夏の風

夏の旗受けてたなびく万倍日

おやつ持ちいざ出陣ぞ夏の朝

 

■出征時には伝えられなかった…朝ドラ「あんぱん」のモデル・やなせたかしに実母が終戦後まで言えなかったこと

https://news.yahoo.co.jp/articles/b937ad09f80794a435ff1d9c8af66428f228a53f

 

66日の「あんぱん」は神回でした。

松嶋菜々子さんが放った言葉に拍手喝采。

「逃げ回っていいから。卑怯だと思われてもいい。

何をしてもいいから、生きて帰って来なさい」―。

そんな母、登美子は「ばいきんまん」、

嫌われ者で誤解されやすいが、どこか憎めず、素直になれない不器用なキャラクター、

当っておりまする。

 

母はずいぶん悪口をいわれた人でした

「お化粧が濃く派手好きで

自分の子どもを捨てて再婚した」

ぼくは母の悪口をいわれるのは

じつにいやでした

ぼくはちっとも恨んでいなかったのです

『やなせたかし詩集 てのひらを太陽に』(やなせたかし著/河出文庫より)

 

戦争から帰ったとき

ぼくは母のひざまくらで

眠りました

熱いものが落ちてきたので

眼を覚ますと

母の顔がありました

「許してね」

母はひとこといいました

『やなせたかし詩集 てのひらを太陽に』(やなせたかし著/河出文庫)

 

ご自身は「フランケンロボくん」、

ばいきんまんがアンパンマンを倒すために作ったロボットだったが、

優しい心を持ち、役に立たなかったため捨てられてしまいます。

 

やなせたかし先生、根っからお優しかったのですね…。

私も先生のような優しさを持たないといけませんね…。

いつまでも、許せない心が狭い私です。

もうしばらくご猶予を…。

 

■あの人に会いたい 吉田ルイ子(フォトジャーナリスト)

2024(令和6)年 89歳没

 

やっぱり被写体の方が喜んでくださるというか

撮られたいと思って撮ってもらい そういう気持ちで私は写真を撮る

何かを告発するとか そういう意味での写真ではないです

やっぱり愛情の表現だという

 

幼い頃、アイヌの友人とある建物に入ろうとしたところ

門番の人が「アイヌと犬は入れない」と言ったんですね

私「えっ」と思って「同級生なの」って言ってね

門番の人と私が言い合っているのを聞いて

彼は「俺 帰る」って そういえば あの子は「アイヌ アイヌ」って

いじめられている 「何で?」と思って 

 

1961(昭和36)年 フルブライト プログラムでアメリカへ留学

言葉の壁にぶつかる 英語でやるわけですよね 当然

言葉を使った仕事は私には向かないと思って そういう時に

「われらみな家族」という写真展をニューヨークでやっていまして

ふらっと入ったんです 生命の誕生の瞬間ですよ それを

しゃべっているんじゃなくて とにかく 1秒以内でバッと表した

この写真というものの魅力 それに とりつかれて

英語でしゃべったり 書いたりすることに 非常にフラストレーションを

覚えていた時期でもあったし 撮れるか撮れないか 問題ではなくて

その時に撮りたい これはもう 自分の中の感激を表現するのは

カメラしかないと思って 

 

吉田さんはその頃、ニューヨークのハーレムに住んでいました

 

なんか長屋的な気分があって とても私としては居心地が良かったんです

特に両親から離れて住んでいたアメリカでは なんかみんな まわりの

太ったおばさんたちが おっかさんという あったかいものを感じたんです

子どもたちも本当に私と一緒になって遊んでくれましたし 

 

「新しい帽子をお誕生日に買ってもらったから」「撮ってちょうだい」

ちょっと小さなカメラで撮ってあげた お母さんが もうこれは何か

一大傑作であるかのように 「あなたはすばらしいアーティストだ」

なんて言って 近所中に見せて回って その近所中の人から

またお呼びがかかって 私としては しゃべらなくても

また書かなくてもいい そういうカメラの世界に 

入って行ったということなんです

 

特にカメラに慣れていない人には怖いんですよ ピストルみたいに

こういうふうに向けるのはね だからやっぱり写真というものを

そんなに怖くないものだ ということを知ってもらうためにも

まずカメラを向こうにも渡して 撮りっこをするんです

 

あのキラキラした子どもたちの輝きが だんだん社会に出て

行くようになると 光が濁ってくるんですよね そういうような

子どもたちの変わり方を 目の当たりにしていますとね 自分自身

それじゃあ私の色は何だろうか 私はどういう立場で ここに

いるんだろうか なんていうのを 考えざるを得なくなってきたわけです

 

あきらめの気持ちで生きていた人たちが 美しいブラックへという

そういう変遷期にあったわけですね 撮っていながら 結局それは

自分を撮っていることに つながって アメリカという所にいる自分の

マイノリティーのね 黄色い意識といいますか 

 

1971年 日本に帰国

1975年 サイゴンで撮影

 

(カメラを)構えた瞬間に お母さんがパッとこう 子どもの頭に

手をやったんです この手と手の指の間から おできだらけの

子どもの頭が見えるんですね せめてこの子どもを守りたいという

そういう親の気持ちみたいなのが ピーンと伝わってきて

シャッターに手を置いていましたけど 押せませんでしたね

 

1987年 南アフリカを取材

 

例えばベルリンの壁の崩壊と同じくらい大きな アパルトヘイトの

廃絶は世紀の出来事だったと思うんです 過去の歴史になってほしいと

同時に これは決して忘れてはいけない 

 

写真を撮るということの中で いちばん難しいことは「見ること」である

写真を通じて目の光の奥にある心っていうか そういうものを私は

もし写真を始めていなかったら 見ようともしなかったと思うんですね

これからも一生をかけて「見る」ということを学ぶことは

時間のかかることだと思います

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