夏休み点けっぱなしのYou-Tube
サンドレス涙流して絶唱す
山法師の花陽に咲き散りゆかん
(過疎地)七月や二桁の感染者
梅雨あがるハマボウの咲く新地川
中原中也と小林秀雄と長谷川康子の三角関係
1923年3歳年上の長谷川康子と知り合い、翌年同棲。
1925年に二人で上京。その年の春小林秀雄と出会う。
その年の11月康子は秀雄のもとに走る。
「私は逃げられるや、その後一日々々日が経てば経つ程、
私はたゞもう口惜しくなるのだった。」
「私は『口惜しくなるのだった。』
「私は『口惜しき人』であった。」と、中原中也…。
朝の歌(中原中也の代表詩)
天井に 朱(あか)きいろいで
戸の隙間を 洩(も)れ入る光、
鄙(ひな)びたる 軍楽の憶(おも)ひ
手にてなす なにごともなし。
小鳥らの うたはきこえず
空は今日 はなだ色らし、
倦(う)んじてし 人のこころを
諫(いさ)めする なにものもなし。
樹脂の香に 朝は悩まし
うしなひし さまざまのゆめ、
森並は 風に鳴るかな
ひろごりて たひらかの空、
土手づたひ きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。
五七調「朝の歌」には深い喪失感はあるが
混乱はなく、澄明な静かな心の世界が伝わってくる。
と、吉田健一氏も秋山駿氏も考えておられたようです。
康子宛ての手紙には
「芸術とは、人が、自己の弱みと戦ふことです。」
「人のやうに虚勢を張れません。
そこで僕は底の底まで落ちて、神を摑むのです。」
と、中原中也は記しているそうです。
長谷川康子の心境が知りたくなりました。
百年前の三角関係を未だに取りざたされるだなんて…。
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