仲春や背を伸ばしたる高き声
春日和臍から胸が声ださん
背中から遠くへ声を風光る
春の空抑揚揃え歌い出す
芳春や字面を肌で感じきる
■こころの時代 西田幾太郎 悲しみの❝底❞をみつめて
西田幾太郎(明治三年~昭和二十年)
我々の現実の世界 日常の世界が何であるかを
よく摑(つか)んで見なめればならない。
そして其処から学問、道徳、宗教などの
立場を考へていかなくてはならない。
我々の最も平凡な日常の生活が何であるかを
もっとも深く摑むことに依つて最も深い哲学が
生まれるのである。(歴史的身体)
純粋経験
経験するといふのは事実其儘に知るの意である。
全く自己の細工を棄て、事実に従うて知るのである。
例えば、色を見、音を聞く刹那、未だ之が外物の作用であるとか、
我が之を感じて居るとかいふやうな考のないのみならず、
此色、此音は何であるといふ判断すら加はらない前をいふのである。
(善の研究 第一編 純粋経験)
主体 客体 主客未分 純粋経験
平常無事の時には何事も分つた様で容易なる様であるが、
一旦不慮の不幸に際会し実地に此身此心を苦しめる時には
心底に潜伏せる疑問は蜂の如くに起りて忽(たちま)ち暗澹たる
疑惑の深抗に陥らぬ者はないのである、(略)
生は何処より来り死は何処へ去るのであるか、人は
何の為に生き何の為に働き何の為に死するのであるか、
これが最大最深なる人心の疑惑である。(人心の疑惑)
哲学の動機は「驚き」ではなくして
深い人生の悲哀でなければならない
理性の上よりして云へは軍人の本懐と申すへく当世の流行語にては
名誉の戦死とか申すへく女々しく繰言をいふへきにあらぬかも知らねと
幼時よりの愛情は忘れんと欲して忘れ難く思ひ出つるにつれて
堪え難き心地致し候 昨日満身元気 意気揚々として分れし者か
今は異郷の土となりて屍たに収むるを得す(略)
人生はいかに悲惨なるものに候はすや(明治三十七年山本良吉宛て書簡)
今まで愛らしく話したり、歌つたり、遊んだりして居た者が、
忽ち消えて壷中の白骨となると云ふのは、如何なる訳であらうか。
若し人生はこれまでのものであるといふならば、人生ほど
つまらぬものはない、此処には深き意味がなくてはならぬ、
人間の霊的生命はかくも無意義のものではない。死の問題を
解決するといふのが人生の一大事である、死の事実の前には
生は泡沫のごとくである、死の問題を解決し得て、
始めて真に生の意義を悟ることができる。(「国文学史講和」の序)
西田さんはボクもよみ出した えらい人がえらい事を
し出したもんだと思つて驚嘆しながらよんでゐる
実際こつちの不真面目な所へ棒喝を食つてゐるやうな気がするね
(大正六年 松岡譲宛て書簡)
死にし子の夢よりさめし東雲の窓ほの暗くみぞれするらし
(大正九年の初夏の頃 長男謙の死にあひて 自撰詩歌集)
運命の銕(てつ)につなかれてふみにしられて立つすべもない
(大正十一年十二月 自撰詩歌集)
悲しみ×運命
人間の存在自体が持つ悲しみ
わが心 深き底あり よろこびも 憂の波も とゝかじと思ふ
(大正十二年二月二十日 自撰詩歌集)
わからない=「無」 絶対無
世界と云ふものは絶対無い、無である。併し無であると云ふこと
それが即ち 我々の個物を成立たしめるところの意味を
有つて居る本当の世界である。かう云ふ風に見える。
(現実の世界の論理的構造 第二講)
戸坂潤 三木清 田邊元
無の論理は論理ではない、なぜなら、それは存在そのものを
考えることは出来ないのであって、ただ存在の「論理的意義」だけを
しか考え得ないのだから(「無の論理」は論理であるか)
我々の自己は此の世界から生れ、此の世界に於て働き、
此の世界へ死に行くのである。(略)此故に我々の自己は、
創造的世界の創造的要素として歴史的世界を形成し行くのである。
(哲学論文集第四補遺)
限定
世界 ⇨ 個人
相互限定
人間は新しい世界・歴史的世界を創造していく
世界=自己を殺すもの 生むもの
矛盾的自己同一的現在として、自己自身を形成する世界は、
多と一との矛盾的自己同一世界であり、かゝる世界の個物として、
何処までも自己自身を限定する我々は、無限なる欲求で
なければならない、生への意思でなければならない。
而して世界は我々を生むと共に我々を殺すものでなければならない。
世界は無限ある圧力に似て我々に臨み来るものである、何処までも
我々に迫る来るものである。我々は之と戦ふことによつて生きるのである。
(絶対矛盾的自己同一)
人間の尊厳
ブリーフケア 深い悲しみを抱えた人に寄り添う
我々の自己は物となつて見、物となつて働くと云ふ、
物来つて我を照らすと云ふ。
此処では、我々は物を自己から離して、対象的に見て居るのではない、
身心一如的である。(知識の客観性について)
無心に 物来つて我を照らす しないわからないまま聞く
エンドオブライフケア
自己の永遠の死を知ることが、自己存在の根本的理由であるのである。
何となれば、自己の永遠の死を知るもののみが、真に自己の個たることを
知るものなるが故である。それのみが真の個である、
真の人格であるのである。死せざるものは、一度的なものではない。
繰り返されるもの、一度的ならざるものは、個ではない。
永遠の否定に面することによって、我々の自己は、真に
自己の一度的なることを知るのである。故に我々は自己の永遠の
死を知る時、始めて真に自覚するのである。
(場所的論理と宗教的世界観)
日常の底を生きる
昭和20年6月7日没 享年75
神は美しき詩の如くに 対立を以て世界を飾った、
影が画の美を増すが如く、若し達観する時は
世界は罪を持ちながらに美である。
(善の研究 第三編 善)
0 件のコメント:
コメントを投稿